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新羅の朝鮮半島統一の願いをこめた、雁鴨池の亀井水と善徳女王墓の四天王寺建立。



女帝の時代

日本で推古天皇が女帝として即位し、女帝の時代が始まると、やがて新羅でも善徳女王が登場する。
そして、中華でも歴史上唯一の女帝則天武后が出現し仏教国家を構築する。
東アジアでは、日本、朝鮮半島、中国と同時期に、女帝と仏教の時代が展開した。
そのさきがけとなったのは、推古天皇の摂政としての聖徳太子の社会福祉の構築でしょう。

新羅の庭園雁鴨池の亀井水



百済、高句麗が滅び、新羅が朝鮮半島統一へ動き始めたなか、674年、築造された庭園、雁鴨池。そこに、亀井水そっくりな、二段石槽がある。

四天王寺の亀井水が593年です。外交的には対立をくりかえしていましたが、新羅の使節はたびたび日本を訪れています。亀井水はとりわけ印象深いものだったのでしょう。

世界遺産登録にともない、近年、きれいに整備された。

一段目からの水の流出には、龍神の口から水が噴出するようになっていた。

ややいびつではあるが、長楕円の石槽を二つ連ねるという発想そのものは、日本に派遣された役人が四天王寺で見た、亀井水の記憶を模倣したと、私には思える。

新羅の四天王寺


新羅初の女帝、善徳女王は、自らの死を予言し墓所も指示したとされます。慶州の郊外、狼山にある円墳がそれです。

善徳女王墓

647年の善徳女王の死後、663年には日本の支援をうけたが百済が滅亡。朝鮮半島の統一がすすみます。唐は、新羅を支援したかと思うと674年には新羅に攻め入ります。このとき、仏教の祈願秘法により、嵐がまきおこり唐軍は撃退されます。四天王護国寺、つまり四天王寺が計画され、統一新羅への足がかりとします。




善徳女王墓を、須弥山の山頂、忉利天とみなし、その山腹に四天王寺を建立したのです。

一金堂二塔の巨大伽藍。入口の亀趺は甲羅しか残っていません。

同時に、雁鴨池の庭園に、亀井水そっくりの二段石槽が作られています。

日本の四天王寺と、新羅の四天王寺。ともに、護国の寺としての役割りをにないます。

一金堂二塔は、同時期の日本の薬師寺と同じですね。これは、天武天皇が新羅との交流に力をいれたという背景があります。薬師寺は天武天皇が発願し持統天皇が完成させ、後に平城京へ移転しました。

*忉利天、とうりてん、須弥山の頂、帝釈天のおられるところ。


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