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難波の宮に続く都市計画は新潟のヌタリの柵~新潟市に亀井水関連遺跡を探究

見出し写真は、新潟の弥彦山。弥彦山には、原初の様式である稚児舞としての天王寺舞楽が伝わる。

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#ヌタリ柵 、#蝦夷、#新潟市東区

新潟市東区には沼垂、木戸、という地名が残ります。

日本書紀、大化三年条に、「渟足柵を造り、柵戸を置く。老人等相謂りて曰く、数年鼠の東へ向かいて行くは、これ柵を造るの兆しか」

とあります。

孝徳天皇紀のなかで、鼠の大移動で語られるのは、難波宮と渟足柵、の造営の二つです。

柵は、き、と読み、城、と同じ意味と理解できます。ヌタリノキ、です。

仮説として、共に鼠の大移動で語られることから、ヌタリ柵は難波宮に匹敵する大事業だったかもしれません。

私の個人的直感として、新潟市東区には諏訪神社が集中している。その位置を東西南北のラインに整理すると、難波宮にほぼ等しい条里制が浮かび上がる、と分析します。


しかし、歴史学では、ヌタリ柵はあまり重視されません。考古学的証拠が見つからない。蝦夷の存在をさほど重視しない、からでしょうか。

蘇我馬子も小野妹子も、息子に、エミシ、と名前をつけている。私は、エミシは、尊敬すべき名前として採用されたと判断します。

この国の半分を占める民族を、エミシと呼んだわけで、ヤマト民族とエミシが合併して、日本国が成立した、とも考えられます。

沼垂城(ヌタリ柵)木簡

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写真は、平成2年に、長岡市の八幡林官衙遺跡で発見された木簡です。養老年号(717~23)と沼垂城、の字がみえます。647年の造営から、すくなくとも8世紀まで、ヌタリ柵は存在したと推測されます。(小林昌二、改革最前線の実像、「大化改新と古代国家誕生」新人物往来社より)


新潟市東区の沼垂、木戸地区の、ウシトラの位置にあたる、旧亀池の底にあったと伝承する、長者のふせたるかめ、が、第3の亀形水盤ならば、四天王寺・新潟・飛鳥、が結びつきます。

新潟弥彦山に伝承される天王寺舞楽。長野善光寺と聖徳太子。四天王寺蕪と野沢菜。さらに、山形の出羽三山の開基蜂子皇子伝説。

話は広がります。

小林昌二先生の調査

亀井水調査を強力に背中を押して下さった恩人は、当時新潟大学にいらした、小林昌二教授でした。小林先生はその後新潟市立歴史博物館館長を勤められました。

小林先生の研究は、難波の宮の造営に続き、東国支配の前進基地として新潟に創られたヌタリの柵(柵=キ、城のことです)の痕跡の探査です。

その有力候補としてあげられたのが、確かな伝承に残る「#長者のふせたるかめ」です。その所在地もほぼわかっていますが、市街地のなかで発掘は思うにまかせません。

この、ふせたるかめ、が、飛鳥、四天王寺の亀井水、に続く第三の亀形水盤だとすれば、七世紀の歴史研究は大躍進できます。

文科省に提出する論文誌に、私の手紙を掲載して下さいました。

平成20年の時点での考察で、亀井水改造の時期、影向井の形状の再考(写真4)などその後の変遷はありましたが、亀井水調査を学術的な課題として公表された、初めての公的文書となりました。

ただし、一般に公表される論文誌ではありません。

新潟市東区
旧亀池のあったあたり

小林昌二先生(元新潟市立歴史博物館館長)の「#長者のふせたるかめ」調査地。亀池跡地。

新潟市東区松崎一丁目。

現在は亀池は埋められ市街地になり、調査は難航している。

ボーリング調査による亀池の深さは、2~3メートル。

四天王寺亀井水の設営位置は、主要境内地より3メートル下。

基礎研究報告書より

以下、2008年、渟足(ぬたり)・磐舟柵の基礎的研究、報告書、より。

小林昌二先生の文章。

◎四天王寺亀井堂の調査成果

奈良県明日香村酒船石遺跡調査で出土した亀形石槽が、斉明朝の祭祀遺構に係るとする正式報告書の「酒船石遺跡発掘調査報告書」(明日香村教育委員会)が平成18年3月に刊行を見た。一方長者の「ふせたるかめ」の2種類の伝承の一つ皆川博編『大形史』によれば、それは、池の底にあって2メートル以上の大きさで、子供が泳ぎ疲れるとその縁に立って休んだという。またもう一つの伝承は新潟市埋蔵文化財調査カードの古老聞き取り記録カードであるが、ここでは長さ9尺、縁が1尺の規模を記録している。これらはいずれも大甕を想定したものであるが、長さが2メートルを超え、縁が1尺などという大甕は考えがたいところから、飛鳥の「亀形石槽」が類似すると考えた。因みに今回の正式報告書の図「亀形石槽」によると、長径は227cm、石槽円形部分が4尺126cm、その周円の縁部分が6寸18cm、周円のさらに外縁部分は8cm位~38cmとある。記録カードが伝える古老の縁が1尺という規模は、「亀形石槽」の周縁がやはり適当する。むろんこの間に亀趺についても調査をしてきたが、亀趺ではとても石槽部分やその縁取りなどが想定しにくいのである。

それにしても飛鳥の「亀形石槽」だけからの類推は、聊か心許なく思っていた折り、富山大学鈴木景二准教授から四天王寺の亀井堂の示唆を受けて、その調査に向かったところその亀井堂には亀形石槽があり、四天王寺職員南邦夫が亀井堂石槽と飛鳥の「亀形石槽」との関連に着目して種々の調査と考察を試みられていることに出会った。ここに第二の「亀形石槽」は、その始原が不明(平安の記録あり)だが、現に使用されながら伝来しているのである。これによって飛鳥の「亀形石槽」が孤立特殊なものではなく、第三、第四の存在を示唆した意義がある。そしてこのことは、長者の「ふせたるかめ」をどのようなものと考えるかという問題に与えた示唆であり大きなものであった。

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