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聖徳太子否定ブームのなかの稚拙な四天王寺論

見出し写真は、創建時の工法を残す、亀井堂の石垣。

聖徳太子否定ブームをまきおこした
名・迷著?

#聖徳太子はいなかった論は虚偽


1999年出版。

たちまち、聖徳太子虚構説の流れをつくった、名・迷、著。

では、四天王寺については、どう考察されているか。p141

🌀四天王寺は、摂津の渡来系の豪族の難波吉士氏の氏寺で、建立の年代も、考古学的にはこの事件(蘇我vs物部の内乱)の半世紀ほど後のこととされており、本来の寺名も荒陵(あらはか)寺で、四天王寺の名称は、早くても天武朝以後なのである。🌀

たったこれだけ。

まず、難波吉士氏が外交にかかわる有力貴族であることはまちがいないが、新羅渡来人である証拠はない。また、四天王寺を新羅系とする推測は、なんの根拠もない。むしろ、百済の様式が四天王寺式伽藍に近いことが、戦後の韓国の発掘で解明された。

戦前の限られた発掘から白鳳時代の創建と推測された。しかし、戦後の発掘、及び法隆寺若草伽藍の発見と瓦の照合により、若草伽藍と同時期の創建と証明された。

四天王信仰は、金光明最勝王経の伝来以前にはありえない、という推論で、四天王寺の四天王信仰は聖徳太子の時代にはありえない、という。だが、須弥山の知識は玉虫厨子にあらわされており、四天王は当然知られていた。そして、亀井水の水源とされる無熱池アノクダッチの知識も『勝鬘経義疏』に記述されている。

戦前の、四天王寺の聖徳太子創建否定説は、戦後のあらたな発掘調査でくつがえった。その戦前の偏見により、四天王寺を論ずるだけで、この聖徳太子否定説はもはや論ずるにあたいしない。まして、亀井水など理解できないと無視するだけであろう。

戦前のアカデミズムの大阪軽視。
歴史は京都と奈良にしかない。

明治時代、政府は四天王寺を神仏混合の通俗信仰の寺と無視。アカデミズムも追従する。

四天王寺は自らを権威化するために、超巨大梵鐘からはじまり、ついに亀井水の亀の噴水への改造に至るまで、無理矢理なことをなされた。

梵鐘をめぐる、宮武骸骨からの哄笑は、大阪の文化人の四天王寺嫌いを決定づけた。

という混乱のなかから生まれた四天王寺否定の、戦前の定説である。


無論学者たちは、亀井水なんぞは見ようともしない。

2000年に飛鳥の亀形水盤が発見され、亀井水の新たな分析が必要となったはずである。しかし、150年間の偏見の傷跡はあまりにも深い。

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