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神仏に祈願しすぎたらバチあたりそう

祈願について、思うこと。

四天王寺にお勤めしていて、護摩木を代筆する仕事も体験しました。

絵馬もそうですが、あまり具体的に書くと、プライバシーをさらすことになる。それで、絵馬に書いたことを隠すシールが流行りました。なんか、みっともない。人に見られて恥ずかしいなら、書くな、と思います。特に、恋愛絵馬はシールだらけ。

神仏に、思いは伝わると信じるなら、細かく書くのは、実は信じていないからではないですか。

所願成就、良縁成就、学徳向上、当病平癒、といった表現で充分なわけです。

私は、亀井水調査成就、と書きました。

これは、亀井水の知名度をあげるためです。たいした効果はないのは、承知のうえ。調査成就とはどういうことか、具体的には説明できません。亀井水は私の私有物ではない。人類の共有遺産です。そう認識してくださる方がひとりでも増えてほしい。そのうえで、私の分析がまちがっていても、かまわない。

成就しても、私の利益にはならない。

祈願とは、私利私欲を満たすためのものじゃない。そんなお説教をする立場ではないですから何も申しませんでした。

なにわのあきんどは、売り手よし、書い手よし、世間よし、の三方よし、を商いの基礎としました。私欲追及だけでは、破綻する。

祈願は絶対成就すべきだ、とお不動さまを責め立てる人は、それは信仰ではない。

気持ちを落ち着け整理して、現実に向き合う勇気をいただく。祈願は、がむしゃらの欲望ではないですから。

たぶん。

大阪四不動巡りの護摩木


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