見出し画像

出水の酒船石と飛鳥苑池

見出し写真は出水の酒船石。大正時代に発見された時の写真。

飛鳥苑池、南池。
北側から見る。


飛鳥苑池遺跡全体図
産経新聞より


南池の南端岸辺に
置かれていた水槽
丁寧な排水口の加工もされ
ステップもあるので
水浴用と思われます


南池の南端岸から
すこし離れて置かれた
噴水装置
流入口は後ろと上の2ヶ所あり


見出し写真再度


噴水装置と出水酒船石の
組み合わせ想像図

さて、出水酒船石と噴水装置の配置ですが、この想像図のようであれば、噴水装置も大正時代に一緒に発見されたはずです。
両者は離れておかれ、噴水装置の位置も低くかったため、発見されなかった。
おそらく、木か竹のパイプで、噴水装置の上から水を落としたのではないか。
上から注ぎ横に流すのは、四天王寺の亀井水と同じです。

四天王寺亀井水の頭の構造
上の亀は明治末に設営
それまでは影向井と呼ばれたもうひとつの石槽があった
四天王寺亀井水コラージュ
右に本来の注水口
その下に飛鳥酒船石遺跡の亀形水盤

飛鳥苑池と飛鳥酒船石遺跡は斉明天皇の時代と推測されます。
京極天皇としては廃位の憂き目にあい、孝徳天皇の難波宮遷移のため難波で暮らしていた女帝は、四天王寺を熟知していたでしょう。
斉明天皇として復帰して築かれた水祭司の施設には、四天王寺の亀井水が念頭にあったと思われます。

北池の北東部に設けられた
水祭司場
水源から西に水を流し
北からの導水路に合流する

南池から発掘が始まり北池へと調査が進み、そしてこの水祭司場が発見されます。
全体の東北、ウシトラの位置にあるのは、四天王寺の亀井水と同じです。

南池の石垣の工法


亀井堂の裏にだけ残された
古代の石垣
中心伽藍金堂から導かれた水の出口として
神聖な石垣として保存されてきたのかもしれません

斉明天皇の水の聖域、酒船石遺跡と苑池遺跡を四天王寺亀井水との関連で見るという試みは、まったくなされていません。
女帝として、推古天皇と聖徳太子の時代をしのぶのは、艱難辛苦の動乱にまきこまれた身として、切実な思いがあったのではないか。

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