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関東平野と聖徳太子、ヤマトタケル


聖徳太子の朝日礼拝



中国隋への親書に、日出国と書いた聖徳太子です。幼児期より父用明天皇が、東の空を礼拝するのを真似、東への太陽礼拝が深く心身に染み渡っていたのでしょう。

亀井水の幾何学的構造から、東の朝日礼拝の水鏡であろう、という仮説を確信する理由のひとつです。

また、太子の少年時代、敏達天皇のヤマトの地に、大集団の蝦夷が移住する、という事件がありました。太子伝は、この時太子が少年でありながら、蝦夷の首領たちと見事な交渉をしたと伝えます。

蝦夷たちは、三輪山麓の大和川で、服属の水の儀式をおこないました。水を口に含んで吐き出すという儀式は、ヤマトの風土への生理的同化を表現するものでしょうか。

飛鳥時代、ヤマト王権と東方蝦夷の交流は発展してゆきます。

大災害の風土としての関東


蝦夷の大集団の移住の原因として考えられるのは、関東平野でなんらかの大災害があったのではないか、ということです。

4つの大陸プレートが折り重なり、深い凹地の海のラグーン=砂州と火山灰が幾重にも堆積したのが、関東平野です。

地震、津波、火山、軟弱地盤、人が定住し文明を営むには、過酷な風土です。

そこに、いま日本の中心がある。

幕府は首都ではありません。江戸時代、みやこはあくまで京都です。

明治以降、東京に首都は一元化された。

しかし、関東平野は首都にふさわしい風土なのか。かなり無理をしているのではないか。


東=アズマ=我妻

東を、沖縄では、アガリといい、西をイリといいます。わかりやすい表現です。

アズマ、ということもある。ヤマトタケルが関東遠征のさい、海路で嵐に遭遇し、后オトタチバナヒメが人身御供として海に身を投げた。

ヤマトタケルは遠征をおえて去ろうとする時、関東平野を見渡し、ああ我が妻よ、と嘆いた。

我妻、が、アズマになったというお話しです。

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