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冬至と牛信仰
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歴史上もっとも重視された聖徳太子像
おなじみのお札の肖像が聖徳太子とされたのは昭和になってから。あれは奈良時代の偽物。
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今日は終い弘法、明日は終い太子。にぎわうお寺もあれば、そうでもないお寺もあるでしょう。
そして、明日は冬至です。
世界中で冬至の日は、とくべつな日とされてきました。クリスマスもその名残りです。
今年は、聖徳太子の御縁日が、冬至になりました。この日を境に、太陽が復活してゆく。
聖徳太子の理想が復活してゆく、祈りの日としたいですね。
亀井水から見て冬至の日の出の位置にある磐座が、牛王尊です。
飛鳥時代は酪農がさかんでした。明日香村では、古代のチーズや牛乳鍋といった古代食を食べられます。
四天王寺にとっても、牛は特別な存在でした。創建のために働いた牛が、磐座となり四天王寺を守護してくださっているのです。磐座は秘仏です。
馬屋は、実質的には、牛屋でもあったでしょう。厩戸というお名前は、実は、うしやと、の意味ではなかったか。太子を多聞天、うしとらの方位の王とみなす信仰から、うしやとら、が、うまやと、に転化したものと思案します。本名ではないでしょう。
日本人には、うしとら信仰が根強くあります。東北は表鬼門である。と同時に、南西の琉球と東北の蝦夷は、民族的幻境として、深層意識の水脈に流れ続けているのかもしれません。
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お坊様が絵馬を売り八卦見をされていた
牛王尊は古来大晦日から元旦夜明け前にお参りする信仰がありました
冬至の太陽信仰と関係するのではないか
写真は昔の牛王尊(石神堂)絵馬ならぬ絵牛を売りながら占いをするお坊様がおられました。この絵牛は今も信仰を集めています。
祗園信仰の牛頭天王が、四天王寺の祭神ではなかったのか、という、大切な質問をいただきました。
亀井水のそばに、創建時に使役した牛が石神に変化した、イワクラを地下にまつる、牛王尊があります。創建時、牛頭天王はまだ知られていませんから、別の信仰です。人により、この牛王尊の石神を、霊位たかいイワクラと感じている方もおられます。
おそらく、牛王尊のことでしょう。
また、亀井水からみて冬至の日のでの位置で冬至の太陽石でもある。その証拠に昔は大晦日にお詣りしたと記録されています。
もうひとつ紛らわしいのが、はだか祭りのどやどやで配る、ゴオウ印のふだ。修験のふだです。四天王寺ではヤナギの枝に取り付けますから水信仰のふだです。
地下水の神としてのスサノオ=牛頭天王が祗園信仰の本質です。
亀井水から信仰の重層、水と太陽が明晰になります。
牛信仰は秦氏の広隆寺の牛祭りとしても伝承しています。
牛頭天王。
牛王尊。
ゴオウ印ふだ。
整理できたでしょうか。
八坂神社の祗園信仰は、都の東を守る青龍を、地下水の涌く洞窟に祭ったのが始まりでしょう。そこに、仏教の祗園信仰の牛頭天王が疫病よけの神としてまつられ、根の国の神スサノオが地下水の神として習合します。
四天王寺でも、創建時の牛を祀る石神と、祗園信仰が重なるように信仰されてきました。
明治政府は牛頭天王を禁止したため、さらにわかりにくくなりました。