「いじめ」はいつ始まって、いつ終わるのか

どうも、仮名です。
昨今のコロナのせいで仕事がありません。おかげさまで食いっぱぐれそうです。
もうこれ以上、不幸なことが起きないように願っています。

さて、コロナのおかげで引きこもっている訳だが、幸か不幸か時間が有り余るようになった。
おかげさまで自宅にいることも増えて、ダラダラと過ごす時間が勿体なくて、でもPCはダメになっていて。
インプットを蓄積する為に映画やアニメ、YouTubeなどをよく見るようになった。
そして久しぶりに「聲の形」を見た。

この作品は学生の頃に見たことがある。
専門学生だった私は、もう二度と見ることは無いだろうと、そう思った。
私の過去はいじめで塗り潰されている部分がある。ただひたすら、孤独だった。
ちょっと人と違うランドセルを背負っていて、母親がしてくれていたヘアアレンジがちょっと派手で、小学校一年生から防犯で持たされた携帯を持っていただけだった。
ただそれだけで、クラスのリーダーに目をつけられた。
突然始まって、もう自分じゃどうしようもなかった。たくさん怪我もした。体も心も。痛くて仕方なくて、頼りになる大人は一人もいなかった。

だから、私はこの作品が嫌いだった。大好きな京アニだったけど、許せなかった。
障がい者を扱うことに関してじゃない。どうして加害者が被害者と仲良くなれるのか。どうして加害者が被害者みたいな顔をしているのか。
世の中の加害者は、きっとこっちの気も知らずに今も幸せに生きているというのに。
この作品にリアリティは存在しないと思った。そんな勝手な話がある訳ない。こんなの加害者側の一方的な暴力だ。

ただ、このタイミングでもう一度見て、ひとつだけ気付いたことがある。
どれだけ辛くても、どれだけ相手を許せなくても、相手に同じことをやり返すことは違うということ。
それだけは、この作品で思ったこと。
被害者側の硝子は、たった一回を除いてやり返すことは無い。優しさからなのかはわからない。でも、笑い続けることは強さではない。
相手と同じ立場にならないようにすることが、いじめの場合は強さになり得るのかもしれない。

でも、我慢し続けたっていじめはなくならない。
結局被害者が逃げなければならない。そんな馬鹿な話が通じるのが「いじめ」なんだと思う。
先生も学校も、私は信用していない。
自分を裏切った先生の顔や、いじめていた子たちの顔は一生忘れられない。

いじめの始まりなんて、とっても些細で小さな出来事。でも、周りを巻き込みきって大人ですらどうすることも出来なくなったとき、そのいじめは人を殺す存在になる。
いじめに終わりがあるのなら、それは被害者が強くなるしかないということなのだろうか。トラウマになって克服できないまま生きていかなければならないということなのだろうか。
理不尽すぎる世の中だと、不公平すぎると、そう思う。

では、また。

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