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Aiming for the Best

だいぶ以前に書いた本ですが、憧れであり目標であったダレル・ペイスについて、彼の射形の写真171枚を使い書いた、レベルアップマニュアルです。
そして今回、このようにnoteでアーチェリーの話を書いているのは、もう一冊書こうと思ったのですが、その前の下書きとしてエイミング フォァ ザ ベストの「行間」を埋めてみようと考えたことがありました。
その意味で、ぜひエイミング フォァ ザ ベストを読んでいただいたうえで、このnoteを見ていただければ、よりアーチェリーが面白くなるかと思います。
この機会に、アマゾンからお買い求めください。よろしくお願いします。


偉大なる世界チャンピオン Darrell 0. Pace と彼を目指すアーチャーに贈る。
1969年、アメリカバレーフオージ、第25回世界選手権大会。前回オランダでレイ・ロジヤースとの接戦の末、2位に甘んじたハーディー・ワードが今度は自国、それも独立城争のとき、ジョージ・ワシントンが本部を構え戦った記念すべきこの地で、ジョン・ウィリアムスを抑え「世界チャンピオン」となる。
この年、僕のアーチェリー人生も始まった。しかし、このときはまだ偉大なる世界チャンピオン、ダレル・ペイスは弓を握ってはいない。1956年10月23日、ダレル・ペイス、オハイオ州シンシナティ市に生まれる。この少年が父の持つ1枚のレジャークーポン券のお陰で偶然にアーチェリーと出会うのは、1970年5月2日のことであった。しかし、彼とて最初からチャンピオンであったのではない。
1971年のヨーク世界選手権、そして1972年ミュンヘン・オリンピック。この2大タイトルを手にしたのは、バレーフォージで苦汁をなめた弱冠17歳のジョンであった。ダレルが初めて世界の舞台に登場したのは、1973年の第27回グルノーブル世界選手権。このとき、だれもが勝利を確信していたジョンは国内予選で敗退、直後にプロ入りを表明した。そんななか、ダレルは辛うじて最下位で予選を通過、16歳で初のアメリカ代表の座を手に入れる。そして、奇しくもこの大会が僕にとっても初の世界選手権出場であると同時に、彼との初めての出会いでもあった。
しかし、世界大会では、やはり強い者が勝つ。たとえ、それがスター不在の大会と言われ、また選手権史上最悪の天候に見舞われ、そのため日程が短縮されるという異例の大会であっても、そこにはやはり実力以外の幸運は存在しなかった。12位の僕を含め、ほとんどのアーチャーは23位の彼の結果に注意を払わなかった。
ところが、である。そんな彼が、それから2か月も経たないうちに、世界記録に16点と迫る1252点で全米選手権を初制覇した。以後、1974年1291点、1975年1316点。インターラーケン世界選手権優勝。1976年、モントリオール・オリンピック優勝。1978年、ジュネーブ世界フイールドイ優勝。1979年1341点。ベルリン世界選手権優勝。1984年、ロサンゼルス・オリンピック優勝……と彼ひとりが世界記録を塗り替え、すべての栄光とタイトルを手中に収めていった。
ダレル・ペイスは世界のアーチェリーそのものだった。


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