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ベトナムラーニングジャーニーで感じたこと3 戦争から立ち上がるベトナム

ベトナムラーニングジャーニー記事第3弾です。
私がベトナムに興味を持ったきっかけは下記記事でも触れました。

過去ベトナムで工場開発に携わった方から、ベトナム戦争中・後に生まれたベトナム人たちがいかに戦争の傷から立ち上がり、勤勉に働き国を復興したか、というエピソードを伺う機会がありました。

彼から「是非クチトンネルに行ってほしい」と勧められ7年。ようやく伺うことができました。クチトンネルとは、塹壕にこもりベトナム軍が米軍相手にゲリラ戦を展開した場所。米軍は「ベトコン(ベトナムの共産主義軍)は、どこにもいないが、どこにもいる」と言わしめた戦場跡です。
彼の同僚には、クチトンネル生まれのベトナム戦争2世も多かったようです。

彼のお話から、ベトナムから日本の太平洋戦争後の世相を伺うことができるのではないか?と考えました。戦争という強烈なストレス、日常生活は奪われ、化学兵器を散布するという無茶をした米軍によりその後も根深いダメージを負ったベトナム国民。

クチトンネルや戦争証跡博物館といった史跡を伺うことで彼らがいかにしてそこから立ち上がったかということに感銘を受けるとともに、日本の戦後復興はラッキーが多いと感じました。

また、ベトナム戦争、ベトナムから想起できる社会問題に関しては以下ちきりんさんのVoicyが非常に的確ですのでご紹介します。

どうぞお付き合いください。


〇ホーチミンシティ戦争証跡博物館をまず訪れよう

私はクチトンネルに行き、後から戦争証跡博物館を訪れました。しかしこれは間違いでした。まずは博物館を見て、クチトンネルへ行く方がリアルです。今から行かれるかたはクチトンネルは後回し。先に博物館へ行かれることをお勧めします。

第二次世界大戦、朝鮮戦争とベトナム戦争との物量比較

戦争証跡博物館は、1955年から1975年まで続いたベトナム戦争についての博物館です。ベトナム戦争は戦場カメラマンが報道する現場・戦争の悲劇が世界を動かしたという意味で、メディアが世論を動かした最初の戦争と言えるのではないでしょうか。

映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」で知られる一ノ瀬泰造氏など、日本人カメラマンも多く現場に訪れました。無事で帰国した方の方が少ないと思います。彼らが文字通り身体を張って伝えた現場写真は、言葉や書籍を超えるリアリティがありました。

ピューリッツァー賞を受賞した沢田教一氏の「安全への逃避」

衝撃的な写真が多いので掲載は控えますが、化学兵器によってベトナムは戦後も根深い影響が残ります。日本でも知られる下半身がつながった結合双生児「ベトちゃん・ドクちゃん」が著名ですね。

海外で生活していて、たまに言われることがあります。
「日本人は、原爆を落とされ、何故アメリカ人と仲良くできるのか?」
その疑問も、最もです。博物館の写真を見ていると戦争当事者はアメリカおよび西側諸国が大嫌いになったことでしょう。当然です。

しかしながら、人間の営みは現金なものです。
政治も、体制も、日々の生活が平穏無事で食事ができていることが前提であればどうあろうと大した不満はないのです。
「百姓は生かさず殺さず」という、封建時代の言葉が典型的だと思います。現代のベトナムを見ると、戦争終結から約50年。西側諸国に対してのわだかまりは表面上感じられません。しかしながらそれも、敢えての言い方をしますが「金づる」として考えるのであればわだかまっていても仕方ないのです。

〇全共闘、日本の左傾化など60年代世相の理解がすすむ

さて、ベトナム戦争時代の世相に話題を戻します。
1960年代後半と言えば全共闘、学生運動の時代です。現代日本で生活していると民主主義・資本主義よりも共産主義・社会主義が優れており正しい思想であるという方は少ないと思いますが、当時は冷戦時代。まだ共産主義思想も勢いがありました。

ベトナム戦争も、そもそも地域の共産化を阻止したかった米国はじめ西側諸国の傀儡国家たる南ベトナムと、共産主義北ベトナムの戦争です。
米軍による虐殺、大義無き戦争、化学兵器による攻撃。時代の流れとして、米国および民主主義・資本主義に懐疑的な世相が生まれ、それが特に知識階級で大きく育ったとしても全く不思議ではないなと思います。

北ベトナムを支持する中国の集会

歴史に対し、手触り感をもって感じられる場所は稀有です。
それも私がそのような歴史に興味を持てるような経験値に至ったということだと思います。10代の頃伺った沖縄戦や、太平洋戦争の事績はここまでの解像度をもって迫ってきませんでした。理解できる段階にはありませんでした。

太平洋戦争関連の博物館は、日本では原爆資料館や、靖国神社、特攻平和会館、大和ミュージアムなど、各地に点在しています。
これら、日本の近代戦史、特に太平洋戦争を包括的に後世に伝える博物館の必要を感じました。大義や是非、プロパガンダとはできれば切り離して。

〇いかにベトナム人が小柄でも。信じられないクチトンネル

さて、この度のハイライトであるクチトンネル訪問です。
ベトナム軍が全長250kmにおよぶ塹壕を掘り、ゲリラ戦の根城としたトンネルです。

左にトンネル模型、右ではトンネルが張り巡らされたエリアを図示

トンネルの中に入ることができるのですが、ガイド氏曰く
「観光客向けにトンネルを拡張した」そうです。当時はもっと狭かったそうです。

トンネル内の会議室 / 四つ角にはブービートラップあり

上記写真は一番広い区画で、移動経路は非常に狭いものです。私は翌日、太ももが筋肉痛になりました。ずっと蛙飛びのようなポーズで歩く羽目になるので非常にきつかったです。

小柄な女性兵士が活躍した、というお話は非常に頷けます。そしてここで生まれた世代、前述した私の知人は「彼らの根性は並ではなかった」と仰るのですがそうだろうなあと思います。
ここで生活し常に死の恐怖があるならば、それが無くなったら一般的な困難など屁でもないでしょう。

〇戦後復興期世相に恵まれた日本

ベトナムは戦争に勝利し、約50年。発展を遂げましたがまだ物価は手ごろで、タイやシンガポール、中国といった周辺国と比べるとその発展も緩やかなものだと思います。

ホーチミンシティのスカイライン

比べて、日本は太平洋戦争の50年後は1995年。バブルが弾けたと言えども、ジャパンアズナンバーワンの余韻が残る時代です。日本の戦後発展はとてつもないものだったのだな、と実感させられます。

占領下の日本から、東西冷戦と朝鮮戦争による特需、西側陣営の一員でいる意義による米国からの支援へと至るプロセスが非常にラッキーなものだったのだな、と思いました。

ちきりんさんの放送でも触れられていましたが、日本が共産主義化していたら?日本が米ソで分割されていたら?朝鮮戦争で西側が敗北し、朝鮮半島が共産化していたら?どのシナリオでも戦後の日本の発展は、減速したことでしょう。

〇結論: 今日も頑張りましょう!

人間は数千年にわたり同じことをやり続けています。
今も大義無き戦争と、それで犠牲になる人がいます。抑止力の重要性を実感します。大義無きスーパーパワーは存在します。それに対し、大義名分や禅問答を挑んでも止めようがありません。

悲しいかな、戦争をしない為にパワーが必要になるのです。これはきれいごとでありません。話せばわかる、と言ってわかる相手なら苦労は無いのです。世の中は理不尽に溢れています。
ウクライナ戦も、パレスチナ戦もそうでしょう。特に後者は、発端こそイスラエルに理がありましたがその後やっていることは半ば虐殺です。イスラエルという国がそれをやってしまうことにどうしようもない業を感じます。

しかしそんな理不尽の中でも、我々は生き、先人と違いこうして一人ひとりの言葉を記せる世の中になっています。今日も考え、行動し、後世に、子孫に、より良い世の中を残せるようにしたいと思います。

今日も頑張りましょう!
お付き合いいただきありがとうございました!

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