コインランドリーの待ち時間 a.k.a 冒険

今まで日常にありすぎて手を出していなかったものや、足を延ばしていなかったところに行ってみるのは、それ即ち冒険である。

平日の仕事で疲弊した週末。
なんとか午前中に起きて、最低限の家事は遂行したものの、どうにもこうにも洗濯だけはやる気が起きなかった。
そうだ、行ったことがないコインランドリーで重たい洗濯物を一気に洗って、洗っている間、近所すぎて行ったことが無かった喫茶店に行こう。私は突発的にそう決めて、適当なお昼ご飯を食べた後、ありあわせの袋にぱんぱんに衣類を詰めて家を出た。

大通り沿いでワンルーム一人暮らし、窓の外はいつも車が闊歩していて排気ガスが漂っているから、洗濯もそこそこ一苦労だ。部屋干ししかできないせいで、いつも部屋の空気は少し重い。
それでも乾くのに時間を要する重めの衣類を洗わなきゃいけないタイミングは容赦なくやってくる。よりによってこの狭い家で一番風通しがいいのが廊下だから廊下の梁に吊り下げておくしかなくて、一度に一着しか洗えない。
生乾きになっても嫌だし、洗うのも干すのも大変だから明日にしよう、そんなことを繰り返していたら、ボリュームありありの衣類たちが何着も折り重なって洗濯かごの中で順番待ちをするようになってしまった。こいつらを洗うための取捨選択すらももう面倒くさい。
しかし、そこに颯爽と現れた(元々あったのだが)コインランドリーにずらっと並んだ大きな洗濯乾燥機の前では、そんな選択をする必要すらないらしかった。
洗濯タグを確認して持ち込んだ大量の服たち。彼らにとっては、家以外の洗濯機に入るのも、お湯で洗われるのも初めてなわけで、得体の知れない初体験を前にきっと緊張しているだろう。そんなことを考えながら、袋の中で縮こまった彼らを励ますようにそっと広げた。
このまま洗濯乾燥機に放り込んで、一時間待てば完成らしい。そんなうまくいくことはないだろと思いながら、分厚いパーカーやちょっとしたアウターをポイポイ投げ入れる。家の小さな洗濯機がいっぱいになってしまうくらいの衣類を入れても、ランドリーの大きな洗濯槽はまだまだ元気いっぱいに口を開けていた。
その有り余る隙間を少しもったいなく思いながら、扉を閉める。綺麗になって帰っておいで。大量の洗濯物が回り出すのを待たずに、袋を畳んで建物を出た。

さて、次は喫茶店だ。
住宅街の真ん中にポツンとある、小さな喫茶店。家から歩いて本当に数分のところにあるその喫茶店に、足を踏み入れたことはなかった。
小さい店というのは得てして客と店員の距離が近い。一人で入ればカウンターに通されるだろう。しかしそこは小さい店なので、カウンター席には大体いつもマスターと仲良さげに話しているお客さんが一人二人いた。外から見てもそれなりにアットホームな雰囲気で満たされていて、ぽっと出の一見さんとしては若干の入りづらさを感じる程度には賑わっていた。
そんなちょっと入りづらい喫茶店に思い切って訪れてみようと思ったのは、いつもより少し早い春の気配に当てられたからかもしれない。
私は、意を決して小さな店の扉を開けてみた。

「いらっしゃいませー」

ちょうどいい声量のマスターの挨拶、中に入ってもやっぱりこぢんまりとした内装、ずらりと並んだコーヒー豆の瓶、そして視線の先には先客。
そしてやはりと言うべきか、カウンターに座っているその客は常連のようだ。カップを磨いているマスターと彼は和やかに談笑していた。
私は若干の心苦しさを感じつつ、たくさんのコーヒー豆や機械を挟んで繰り広げられるたわいもない話を横耳で聞きながら、カウンターに座り、メニューが書かれた黒板を眺めた。
おしゃれな名前のコーヒー、美味しそうなケーキ。そろそろホットコーヒーもブラックで味わえるくらいの心の余裕が欲しいと思いながら、本日のコーヒーをアイスで注文した。もちろんケーキも。
マスターと先客は、私のコーヒーを拵えながらも世間話に余念がない。仕事、休日、子供、いろんな話に花を咲かせている。そんな二人の笑い声も、豆を一杯ずつ挽く音も、湯が注がれる音も、グラスに氷が投入される音も、小さな店にはよく響いた。
程なくして、アイスコーヒーとチーズケーキがやってきた。こんな一見さんにも優しくコーヒーの解説をしてくれて、本日のコーヒーというのはどうやら結構香り高くて酸味が強いらしいということがわかる。(私のコーヒーに関する知識なんてそんなものだ)
ありがとうございますとお礼を言って、グラスに口をつけた。
美味しい。これは確かに美味しい。
すっと鼻腔をつくコーヒーの香りと、舌を包むまろやかな酸味に思わず唸りそうになる。氷によって冷やされても香り高さは申し分ない。
これはきっとチーズケーキも美味しいんだろうな、と期待値が高まる。フォークで一口分を切って、口に運ぶ。
待って、めちゃくちゃ美味しい。
このチーズケーキ、口溶けも風味も、こういう喫茶店で供されるには十分すぎるほど十分で、添えられたホイップクリームの固さも絶妙。甘すぎない上品な味わいがまたコーヒーととてつもなく合う。後から調べたらマスターの手作りらしい。すごい。

「うちの子供の写真見ます?」

チーズケーキに感動していると、不意に頭上から声が降ってきた。目線をあげると、マスターが私にスマホを向けてニコニコ笑っている。先ほどから途切れることなく続いている子供自慢を聞いていたら、見ないと答える選択肢はなかった。

「いいんですか?ぜひ!」

軽快なジャズに混じる子煩悩な世間話は、甘すぎないチーズケーキと同じくらいコーヒーに合うのだとこの日初めて知った。
どんな店でも、それが名店であろうとなかろうと、訪れる客の期待を裏切らないことは重要だ。この喫茶店はきっと、どんな時でも来店する人々の期待値を越え続けてきたんだろう。
いつの間にか、少ない席はお客さんでいっぱいになっていた。
住宅街の奥にあるこの喫茶店が、何年もの間常連客で賑わっている理由が少しわかった気がして、私は立ち上がった。

「ケーキとコーヒー、美味しかったです。また来ますね」
「はい、お待ちしてます」

外に一歩出るとそこはいつもと同じ住宅街で、でも少しだけ違う景色に見えた。

コインランドリーに戻ると、残り3分の表示の下、私の洗濯物たちがぐるぐると回っていた。どうやら乾燥の時間らしい。待ち時間、なんだかそわそわ落ち着かない。熱風の中撹拌される洗濯物たちを、早く助けてあげたい。やきもきしながらも、持ち主には待つことしかできない。
ピー!
電子音が鳴ってハッとする。できたぞ。私は急いで洗濯乾燥機に駆け寄った。
洗濯物たちは大丈夫だろうか。怖くて縮んだり、湿ったままうなだれてはいないだろうか。神妙な面持ちで扉のレバーに手をかけ、扉を開ける。待ってろ、今助けるからな。
がちゃん。
扉を開けると、持ち主の不安などいざ知らず、彼らはみんな、家では見たことがないようなほかほかのふわふわになっていた。

「……なあんだ」

しっかりと乾いたお気に入りのパーカーに触れると、気の抜けた小さい独り言が肺から飛び出した。
パーカー、スウェット、バスタオル。どれも温かく、心配していた湿り気はどこにもない。どことなく満足げにも見えるふかふかになったそれらを一つずつ袋に入れながらふと顔を上げると、コンランドリーの窓にはもう暖かな西陽が差していた。だいぶ日が伸びた午後四時の空は、淡いオレンジ色をしていた。
帰り道、来た時より心なしか軽いような気がする袋を持っててくてくと歩く。
水を吸って重たいパーカーを網に干して、朝起きたり帰宅したりしては乾き具合を確かめてひっくり返して、そんなことを二、三日繰り返してようやくフードの裏側までしっかり乾く。そんなじめっとした作業がすべて千円で済んでしまうなんて、もっと早く気がつけばよかった。
あと、美味しいコーヒーと、チーズケーキと、子煩悩なマスターがいる喫茶店にも。
なんでもっと早く知ろうとしなかったんだろう、という気持ちと、今日分かったんだからいいや、という気持ちがないまぜになって、マスク越しの息と一緒にオレンジの空に吐き出されていく。
そうして歩いて、横断歩道で足を止めた時、知らない冒険をして帰ってきた洗濯物のことがなんだかふと愛しくなって、私はぱんぱんの袋をぎゅっと抱きしめた。

そうやって大切に持って帰ってきた洗濯物は、畳んでいる間もほのかに温かかった。

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