ある一定の質量との表面接触体験が無いと人は満足しない


東浩紀氏の論考を目にし考えた。
音楽や書籍や映像は何キロバイトかのデータを作れば資本主義的必要は満たされそれを享受してさえいれば人間は幸せなんだというのは全くの幻想だと。音楽にはそこにたどり着くまでの個々人の体験や一緒に聴く仲間やライナーノーツに書かれたさまざまなバックストーリーやそんなものを含めて音楽だし、本も装丁や手にした時の重量感や売り場の陳列のされ方を含めて価値がある。
映像を作る者として観る人の満足度の高いものを作ろうとするなら、情報としてのコンテンツを作るだけでは無くコンテンツを包括するもの全てを考える必要があるし、コンテンツそのものにも出来る限り質量を持たせる試みをするべきなのであろう。
映像は光により人間に伝達されるものであるし光自体に質量は無いとされている。だが思うにそこにはそれを見た個人が感じる感覚質、つまりクオリアをどれだけ豊かなものとして伝達出来るのかのまだ数値化されていない問題があるのだろう。クオリアの正体はまだまだ未解明なものだと聞くが、感覚的にその存在をずっと意識してきた。周辺で疑似的なクオリアを作り出す営みが続く中、それを否定せずでも全面的に肯定することもせず。その構えをくずさぬように。と、東氏の言葉から巡らせ強く思う。

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