あわいで仕事するひと

とあるアニメーションプロデューサーとお話しする機会があり心に残ったと言うか引っかかった言葉がある。

グッドプロダクト。

世界的な人気タイトルのセルアニメーションを手掛ける制作会社の中ではやや異端な作品をつくるそのプロデューサーはいわゆるコンシューマー向け商業作品とは別軸の上がりを想定した制作ラインを持っているそうだ。それはひとつにはインディペンデントで作家性を発揮しながらアニメーションを作る人たちが社会の中で活躍する場を作りたいという思いからだそうで、更にはややもすると大量生産された工業品のように画一的な上がりになりがちな今日のセルアニメーション制作の現場で作品の多様性を保持しようとした時にその独特なフローの制作ラインが機能する意味はとても大きいのだそうだ。

そしてここから話しは続くのだが、その別ラインで作られた作品を国内では最大と言われるアニメーション映画祭に出品した際に審査員から出たコメントに「グッドプロダクトだね」という言葉があり、その言葉だけで先の議論に進まなかったのだと言う。
審査員の放ったグッドプロダクトという言葉の中には「商業作品として観やすくまとまってるね」という褒めてるとも蔑んでるとも受け取れるニュアンスが含まれる(と僕には感じられる)。出品したプロデューサーからすれば仕事の中から生まれた特に作家性の高い作品を出したそうだが映画祭主催側の反応は端的に言って芳しいものでは決して無く言ってみればスルーされたものとも捉えられる。因みにその審査員とはある藝術大学でアニメーションの教鞭をとるベテラン教授らしい。

そうなのだ。この感じ。この話しに象徴される事象、つまり日本のアニメーションの世界において個人レベルで制作され映画祭や芸術大学などアカデミックな場で良しとされるものと、大衆が支持しお金を出してまで視聴するものの乖離が甚だしい。そこには関わる人たちの何がしかの利権の奪い合いを疑いたくなる程の病んだなにかを感じるのだ。芸術性という名の下に於いては作品のなかに社会に対する批評性や実験性といったテーゼが含まれるものが評価を受けやすい。僕自身も作家個人の制御不能な創作動機が発露した作品を観て刺激を受けたり嫉妬を覚えたりと感情を動かされることはとても多い。が、反対にそういったものが前に出ている作品は今の日本社会においてお金を集めて大きな作品を作りましょうという気運にはなりにくい。むしろいわゆる誰も食いたがらない作品と言われたりする。お互いがお互いの場において距離を保ったまま芸術作品と商業作品は別なものだよねという理由なきテリトリーを必死に保守する事に尽力している何者かがいるようにも感じる。

グッドプロダクト。よくよくその言葉を考えてみる。例えば椅子はどうだろう。アクリルを流した中に生花を入れた倉俣史郎のミスブランチよりはイームズ のスタッキングチェアの方がグッドプロダクトと言えそうだ。そしてアート関連のディレッタントがイームズの椅子の価値を倉俣史郎のそれより下に見る事は無いように思う。器はどうだろう。柳宗悦や濱田庄司らが大衆の日常の中に用の美を見出した民芸の価値観はまさにグッドプロダクトであり、それもまた芸術的アカデミズムにおいても無視出来るものでは無いはずだ。
アニメーションにおけるグッドプロダクト。
そう考えるとその場所こそが前線で視聴者と向き合いながら制作する我々の目指す場所であるように思えるし、誤解を恐れず言うなら僕らがグッドプロダクトを作り続けることで大衆の意識やリテラシーをも向上させる可能性だってあるのではないかと思う。
だからアート界隈と商業界隈があるのだとしたらそれぞれのテリトリー内から外を冷笑しているのでは無く先述のプロデューサーのようにそのあわいでものづくりをする覚悟をもつ人が多く出てきてはじめてアニメーションにおけるグッドプロダクトが本来の意味となるのであろう。



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