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文体の舵をとっている11

〈練習問題⑧〉声の切り替え
問二:薄氷
六〇〇〜二〇〇〇文字で、あえて読者に対する明確な目印なく、視点人物のPOVを数回切り替えながら、さきほどと同じ物語か同種の新しい物語を書くこと。
もちろん、問一で書いたものから〈目印〉を取り除くだけでも問二に取り組めるわけだが、それではあまり勉強にならない。今回の「薄氷」では、別の語りの技術と、おそらく別の語りそのものが必要になってくる。今回はどうやら一見、三人称限定視点だけを使っているようでいて、実は潜入型の作者で書かれている、という結果になりがちのようだ。まさに薄氷の課題で、しかも下の海にはまってしまうと深い。
※語り方は三人称限定視点縛りとします。
※〈目印〉を取り除いた問一の実作を問二の実作として提出するのは禁止とします。
※「視点人物のPOVを数回切り替え」は3回以上とします。

問2.
 赤ん坊が泣いている。何かを請うように、恐れるように、あるいは悲しむように。
 ドラッグのもたらすひと時の陶酔はエリックの思考力と判断力をじわじわと溶かしていった。妻はエリックに赤ん坊を押し付けるようにして朝からどこかへ出かけて行った。夫婦の間柄は赤ん坊だけで辛うじて保たれているようなものだ。
 金もない、仕事もない。俺の人生は何もかもが上手くいかない。エリックの胸に悲しみと虚しさが芽生える。あぁ、この子も俺の子として産まれてきたことが悲しくて泣いているのだろう。
 エリックは湿っぽく洟を鳴らしながら赤ん坊をそっと抱き上げる。そして取り出したのは、哺乳瓶でもおもちゃでもなく黒光りする拳銃だった。
 いざ死のうと、赤ん坊ごと銃を己に向けるがなかなか最後の踏ん切りがつかない。『何か』がギリギリで自分を押し留めている。
 ビビっているわけじゃない、ビビっているわけじゃない!
 腹の底から声を張り上げても引き鉄は引けなかった。行き場のない感情は薬物によって蹂躙された精神状態とあわさり破壊衝動となって弾ける。
 気付くとエリックの足はテレビの画面を蹴破っていた。
[東地区三丁目のアパートで男が暴れているとの通報あり、付近のPC(パトカー)は至急現場に向かい、事案の詳細把握に努められたし]
 本部からの通報無線を受けた時、マーク・サンダース巡査部長は新人のツバキ・スターリング巡査を連れて、現場のすぐ隣の通りをゆっくりとパトカーで流していた。
 新人に現場を体験させるにはあまりに好都合な事案だった。男をちょっとなだめすかして話を聞くだけ――そう思っていた、現場に到着するまでは。
 現場は低所得者向けのアパートで廊下はあちこちにゴミが散乱し、饐えた臭いが漂っていた。件の部屋が近付くころには、室内からは男の怒鳴り声と食器類が割れる派手な音が聞こえてきた。強張った表情のスターリング巡査にリラックスしろ、と笑いかけてマークはインターフォンを押す。意外にも応じた声は冷静だった。先ほどの物音から考えるとあまりにも不気味なほどに。
 ツバキ・スターリングは何が起きたのかすぐには理解できなかった。部屋の主は赤ん坊を抱えながら現れた。巡査部長が二、三声をかけた途端に、男は表情を一変させ隠し持っていた拳銃を発砲したのだ。
「危ない!」
 咄嗟に巡査部長を突き飛ばしたおかげで、彼は太腿への被弾だけで済んだ。ツバキも銃を抜いたが、威嚇射撃が数発部屋の奥から飛んでくる。
 マークは倒れ込んだ姿勢のまま苦し気な声で応援要請を連絡すると、制服のネクタイを抜き取り手早く止血を行った。
 どうしよう、どうしよう……。配属初日だというのに波乱の幕開けだ。教科書の中だけの世界が現実の刃となって突きつけられる。
 部屋の中からは子供諸共死んでやる、という錯乱した声が続いている。男の気が変わらぬ内に赤ん坊を遠ざけなければならない。ツバキの呼吸は手負いのマークよりも不安定に荒くなっていた。
 ふらふらと熱に浮かされたような使命感だけで動き出した所をマークに止められた。
 落ち着け、俺は大丈夫だ、応援を待て。巡査部長の静かな言葉がじんわりと身体と頭に染みこんでいく。
 熱情が収まりかけたその時、部屋の奥から狂った獣の咆哮のような男の大声とそれに釣られてひと際大きくなった赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。気付けばツバキは飛び出していた。
 エリックの前に躍り込んできたのは若い女の巡査だった。目は血走り、汗が浮かぶその表情は硬い。向けられた銃口は震えていた。
 巡査は覚束ない説得の言葉をエリックに向けた。銃を下げなさい、子供を放しなさい。
 このヒトは何を言っているのだろう? 俺はこの子の父親なのだ、片時も離れるわけにはいかないじゃないか、それにこれから一緒に死ぬんだから。邪魔をしないでくれよ、うるさいなぁ!
 鬱陶しい巡査の言葉を打ち消すようにエリックは吠えた。
 威嚇し返すようにツバキも吠えた。
 二人の咆哮が混ざり合い、全てが限界に達した瞬間――、

 銃声が轟いた。


前回より既定の文字数が増えたため、前作に追加の場面と描写を入れて語り直した。追加の縛りで視点の切り替えは三回とされたので、登場人物三名それぞれの視点を描き、彼らの背景や感情に触れられるようにした。前回では起きている出来事や行動に主を置いたので、そこに行きつくまでの感情や思考を描く書き方になり、やや課題のための文章を書いてしまった感が否めない。語り直しではなく、ゼロから別の物語を書いていればまた別のアプローチになったかも……?


講評覚書

・前回は各登場人物らの異なる視点が際立っており、状況をハッキリと把握することができたが、感情の流れをシーンの情景より優先させることで感情的なオチを付けようとする雰囲気が生まれる。ラストシーンに近いイメージ。
・視点の切り替えや背景が増えたことで、各登場人物が公平に見られるようになった。全体を俯瞰して見られるようになり、対立構造が前回より薄まる代わりに、最後のオチと緊張感がよりショッキングに映るようになった。
・エリック側の視点が追加されたのが良い。特に冒頭に配置されているので感情移入を誘う。
映像再生の再現性が高い。視点の切り替えがヴィヴィッドで想像しやすい。無線通話での切り替えなどにも工夫が見られる→場面転換のヴァリエイションは自信あります!
・『エリックの前に躍り込んできたのは若い女の巡査だった。~』はエリックの視点なのだが、エリックがツバキのことを『巡査』と識別できているのは不自然である。『警官』が適切か。エリック側に警察の階級を識別できる前提がなければならない。
・間接話法、内言で誰の視点なのかがわかりやすい→内言描写が好きなのでわりと手癖。特に終盤のエリック視点での内言は状況も合わせて良い描写。


俺は警官のオタクなので出会う制服警察官の階級は常にチェックしている。


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