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<映画> 運び屋

 大学生のころ、友人に或るアルバイトを紹介してもらった。場所は新宿、池袋、高田馬場と転々としいた。指定された時間にルノアールで落ち合うのが決まりだった。コーヒーはただで飲めた。夏に着慣れぬスーツが鬱陶しく、俺はアイスクリームの乗った冷たいココアばかり飲んだ。
 新宿のルノアールは昼間からヤクザばかりで俺はいささか怯んでいた。隣にいる先輩だが歳下のNは暢気にストローで氷をかき回していた。そのカラカラという音が妙に響いていて、俺は厭なじっとりとした視線を全身に感じないではいられなかった。髪を撫でつけ顎から鼻下まで髭を蓄えたNは少しも臆する様子がなかった。陽気な男で後輩の俺にも敬語で接してくれるし、誰と話すときも常にニコニコと白い歯を見せていた。だがダブルのスーツを着こんで前屈みに坐り、腕をだらりと下げているさまは一般人をたじろがせる不穏な凄味があった。そんなNがモーニングの茹で卵をかじりながら、何とも軽やかな調子でこう言ってきたのだった。
 Kさん、運び屋とか興味ないすか? 一緒にやってた奴が飛んじゃって、けっこう割りがいいんすけどね、Kさん感じがいいし、向いてますよ、ほら、おれじゃモロって感じでしょ、だからおれが受け子やるんで、Kさんがブツ運ぶって感じで、どうすかね。
 俺が返答に窮していると、向かいに坐っていた年嵩の先輩のTが助け舟を出してくれた。やめとけって、はっきり断った方がいいぜ、こいつ莫迦だからしくじったら尻尾切られるぞ。そのTにも、少し前にネットワークビジネスの片棒を担がないかと誘われたばかりだった。Nは、そんなァ、とおどけて笑ったが、下を向いた拍子に低い声でボソリと、うるせェなァ、と零したのが俺だけに聞こえた。俺はほどなくしてアルバイトを辞めた。

 「運び屋」の主人公アールも、孫娘の知人からやはり軽い調子で「ただ車を運転するだけ」という仕事を紹介された。人生の終りに職も家庭も失ったアールは、名誉挽回とばかりにその怪しげなドライバーを引き受けることとなった。
 軽快な音楽と共に飄々としたムードが流れている。それは九十という高齢で元軍人のアールの物怖じしない人柄から滲み出るもののようだ。だがアールの与り知らぬところで、麻薬取締局の捜査官がジワジワと彼を追い詰めていた。厳格なルールを守ろうとしない気儘なアールに、麻薬組織の一部の者は敵意を憶えているらしかった。……

 ニューヨークタイムスの三面記事に、イーストウッドの末期の哲学が夥しく練り込まれたような映画だ。実話ベースながらもきれいなドラマ仕立ての構成になっていて、娘役に実の娘を起用したり、要人役では存在感ある名優が華を添えている。彼の半生を調べてから観るとより深く愉しめるだろう。人間らしい深い情を醸しだす、ブラッドリー・クーパーの表情も見どころだ。イーストウッドを主演でスクリーンで観られるのはこれが最期なのではないか、寄る年波もさることながら、そう思わせる哀愁と覚悟のようなものを感じる映画だった。

 日本にカルテルのような巨大麻薬組織はない。だが、ニュースで末端価格億単位の薬物が押収されたという報道を見ることは少なくない。蒲田を歩いていると、時おり二名の警官に呼びとめられて、ポケットや靴や財布の中身を探られることがある。案外いるもんですか、と訊くと、きょうも一人いましてね、と笑っていた。数年前に法改定されるまでは、繁華街では脱法ハーブの店がデカデカと看板を出したりしていた。
 ふつうに暮らしていれば、麻薬などと何処で接点ができるものか見当もつかないが、案外に、誰しもの身近に潜んでいて常にこちらを伺っていると思っていた方がいい。知らぬ間に利用されているケースも少なくはない。他人事なんてものは、何一つないのだ。……


#映画 #運び屋  

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