見出し画像

それでも変わらず、人を信じ、自分を信じた先に、気持ちの良い伏線回収があると信じている。


2023年、いかがお過ごしだろうか。

年々ひどくなる花粉症に血反吐を吐き、刹那の満開の桜が春一番に吹き散らかされている間に、はや3カ月以上が経ってしまった。

遅くなったが、不定期の近況報告と、今年の抱負を兼ねて、書く。

--

年始にひいたおみくじは、大凶だった。

しかし、そんなことを今ようやく思い出した程度には、ハッピーな滑り出しを切っている。

健康運・仕事運において、明らかに今年は大吉以上だ。

これまで挫折の連続だったが、うれしいことにようやく1年以上まともに健康に働くことができている。

新卒1年目で心身のバランスを崩して休職し、1年単位で転職していた私にとって、これはうれしい成長だった。
(休職当時のことは、拙いながらこちらのマガジンにまとめているので、本当に暇な人だけ読んでみてくれるとうれしい。)

心身のSOSを無視せず素直に休んだり、「まあ、こんなもんだろう」という自分への承認をすることで、少しずつ完璧主義から抜け出せている。

環境の変化もある。
今年から社内での立場が変わり、プロダクトマネージャー(PdM)という役割を担っている。いわゆる、自社サービスの意思決定役のひとりだ。
システムエンジニア、デザイナーを含む数名のチームをまとめ、どこに向かうべきか決め、ブレずに進めることが主な役目とされる。

新米PdMの私もまた、1つのチームを持つことになった。
私のチームのメンバーはみな、私よりもずっと知識や経験のある優秀な方ばかりだ。しかも全員が人格者ときた。奇跡のチームだ。私の今年の運はここで使い切っている可能性がある。

とにかく、「チームを率いる」という立場になった。

実は新卒1年目にも同じ立場になっていたが、残念ながら失敗している。右も左もわからず未熟だった私は、チームに頼れずひとりで空回りし、つぶれた。

あれから3年。
人生とは不思議なもので、また同じチャンスが巡ってきた。

今度こそ、チームで成果を出せる人間になりたい。

私ひとりでやれる仕事など、雀の涙よりわずかで、しょーもない。
そんなしょーもない私を、チームが支えてくれている。

正直、相変わらず右も左もわかっていないのだが、せめてそんな自分を隠さずに伝えていこうと決意した。皆さんより知識も経験もないが、わからないなりに精一杯がんばりたいと。あまりのポンコツ具合にめまいがすると思う。

しかしありがたいことにチームメンバーはそれを理解してくれ、さりげなく自身の役割を越境し、悩み惑う私の手を引いてくれるのだった。どんな会議も、些細なチャットのやりとりも、何気ない雑談も、そんな雰囲気で満ちていて、いつも感謝と安堵で涙が出そうになる。

等身大の自分でいることは、簡単なことではない。
それを伝える努力と、向上心。周囲への信頼と、理解。双方あって初めて成り立つ、繊細で貴重な関係だと常々感じる。

いわゆる自己開示が重要だと気づけたのは、新卒1年目の休職の経験があってこそだ。
過去の失敗が、ようやく私の人生の伏線となってくれた。

会社に行けなくなって、中野新橋の狭いワンルームで泣いていたあの時の私よ。線路に飛び込まず、よく耐えた。3年後の私は、お前に生かされているよ。


--

もちろんそんな豪運を味方につけながらも、これからぶつかるであろう壁を思うと恐ろしい(すでに今もいろんな壁にぶつかりながら蛇行運転してきたおかげで、車体はベッコベコだ)。

プロダクトマネジメントやアジャイル、リーン関連の本を読んだり、ジムで心身を鍛えたりなど日ごろからやれる範囲でやってはいるが、やっぱり悩みやダメージは絶えない。

……そういえば、ジムでのトレーニング後、トレーナーさんがよく言う言葉がある。

「明日、筋肉痛くるといいですね~」と。

最初は何言ってんだこの人と思ったが、今ではよくわかる。
筋肉は負荷をかけることで成長する。筋肉痛はしっかり負荷をかけられた証であり、成長のサインなのだ。

私もマッチョの教えに従って、仕事のストレスやダメージはすべて成長のサインであると捉え、たまに大声を出しながら頑張っていきたい。ヤー!


--


マッチョ精神を身につけつつあるのはいいのだが、プライベートにおいては昨年から大小喜怒哀楽、さまざまなイベントが重なって情緒がジェットコースター気味だ。
26の歳、そういうタイミングなのかもしれない。

昨年は親友が電撃結婚し、私は2年一緒にいた恋人と別れ、同年代たちは次々と婚約、式を挙げた。恋愛や結婚がすべてではないが、置いていかれる感覚はいやでも抱く。

幸いにも、両親は私のことをわりと放置してくれているので、結婚や子供について急かされたりはしない。結婚し孫の顔を見せるという親孝行は、すでに姉が果たしてくれている。

私自身、結婚や出産に対してはどこかおとぎ話のように感じている。
(別に今の日本の社会状況が~とかではなく、私の覚悟の問題であると思う。)

先日、会社の飲み会で先輩方に「結婚のメリットって何ですか?」と聞いたところ、「ない」と満場一致で返ってきて拍子抜けしてしまった。じゃあなんで結婚してるんですかと聞くと、だという。おいおい、皆さん澄ました顔してそんなロマンを内に秘めてたんですか?

いろんな人に聞いてみているけれど、どうやら結婚にメリットはないらしい。なんだか安堵した。
つまるところ、愛で結婚しているらしい。それもなんだか安心した。なんだ、シンプルな話じゃないか。

もちろんひとりひとりに事情があり、結婚の形も、パートナーのありかたも、それぞれだと思う。私自身、性的指向はパンセクシャルやオムニセクシャルに近いので、どんなパートナー関係が自分にとって最善なのかわからなくなる。

自分にとって、愛ってなんだろう、幸せってなんだろう、と、以前にも増してよく考えるようになった。

明確な答えは、まだ出ていない。

ここ数年で、たくさんの種類の愛に触れ、そのほとんどが形を変えた。人生で初めて、自分の中の激しい怒りや憎しみにも出会った。

失ったものや過去の幸せな記憶に対して、愛の残滓のような痛みや懐かしみ、故人を悼むような諦めと祈りがわずかに残っている。

未練や後悔とは違う、そういう気持ちを、ポルトガル語で「サウダージ」と言うそうだ。
ポルノグラフィティの名曲でもあり私も大好きだが、何よりこんな情緒の機微を表す言葉が存在することに救われている。

愛とは何か、幸せとは何か。先述の通り、答えは出ていない。

でも、いま目の前にあるがんばりたいこと、守りたいもの、楽しいこと、健康でいてほしい人……すべての要素が私を構成していると感じる。

サウダージを背に、より深く、今この手に残る大切なひとやものを愛せるようになった。

そう、思いたい。

--

何かを大切にしたり、愛そうと努力をするたびに、エーリッヒ・フロムの名著愛するということを思い出す。

フロムによれば、1人で生きられない人間は、だれかと2人で生きることはできない、のだそうだ。

と同時に、愛することとは、自己への信頼と他人の可能性への信頼にもとづく、最も人間らしい技術だという。(言葉がむずかしいね。)

要するに、「誰かがいなくとも、この身1つの私でいい」という揺るぎない基盤が持ててはじめて、他者に対して過度な期待や依存のない、純度100%の気遣いや親愛を向けることができる、ということだ(と、私は解釈している)。

逆に、自己の基盤がないままでは、他者に依存し、他者の言動・存在の有無が自己の存在を揺るがすことになる。自分を守り維持するために、「愛される」ための振る舞いや自己抑制しかできなくなってしまう。

もともと自己と他者の境界線があいまいな私にとっては、非常に難しい技術だ。いま自分が他者へ向けているさまざまな種類の愛が、自己を守るためなのか、それとも真に自分を認め、他者の可能性を信じているがゆえなのか、わからなくなる。

しかし少なくとも、等身大の自分を認め、周囲に対して背伸びをせず、素直に気持ちを伝える勇気を持ち始めた今の自分は気に入っている。

もともと何かにつけてよく涙が出る性質の私だが、最近はまた輪をかけてよく泣くようになった。そして同じくらい、よく笑うようになった。
私の心は、これまでよりも多種多様なかたちで、外に表れるようになった。

これらが今後、どれほど私の人生の伏線になり得るのか、まだわからない。

何かを愛し、努力をしても、すべてが報われるわけではない。
私は未熟で、多くの失敗をし、これからも失敗し続けるだろう。

周りにも自分にも社会にも、過度な期待はせず。

それでも変わらず、人を信じ、自分を信じた先に、気持ちの良い伏線回収があると信じている。

2023年。
私という一人称で、まだ見ぬ展開へとページを重ねながら。



2023.04.08
あけましておめでとうございます。(遅)
毎年、大仰に新年の抱負を叫ぶ芸人みたいになってきました。今後も持ちネタとして続けていきます。
引き続き、関わってくださるすべての皆さまへ、愛をこめて!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?