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映画「デトロイト」

監督:Kathryn Bigelow 製作:Annapurna pictures  配給:Annapurna distribution(US) Longride(JP)

タイトルを見るなり「おっ、デトロイト・ピストンズ(NBAチーム)が映画化されたのかな」くらいのお気楽なノリで予告編を見たところ、「ああ、これは...」という感じで、すぐにただならぬ雰囲気を感じました。ビグロー監督の5年振りの作品ということで、宣伝ポスターにもでかでかとアカデミー賞を謳っています(なぜ総スカンだったのか、という点は興味があるところだけど)。「ハートロッカー」や「ゼロ・ダーク・サーティ」を通じて、「これを見てあなたはどう思うの」という問いを投げかけられてきました。本作は、これまで沈黙してきた当事者達のコンサルを受けながら、徹底したリアリティで持って、デトロイト暴動を背景としてアルジェ・モーテル事件を描いています。そして、事件後にどうなったか、ということも。

暴動によって街はひたすらに緊迫した状況で、ここに人が住んでいるとは思えないほどの地獄絵図です。暴動が拡大の一途を辿り、ちょっとした事がきっかけで発せられた一発の銃声が、事の発端となります。銃声を狙撃と勘違いした警官クラウス達は、アルジェ・モーテルへ急行し、そして施設内にいた男女を取り押さえます。この中に狙撃犯がいると考えたクラウス達は、尋問を始め...。

行われた尋問(拷問)は、瞬きすら許さないほど酷いもの。異常。人としてどうか、の「人として」という前提すらないことのように、狂気。ただ、一番「絶望感」を感じたのは、黒人警備員ディスミュークスに起こったこと。彼はクラウスと共に加害者サイドに属してはいたけど、実際には被害者を庇ったりと、どちらかというと第三者的な立ち位置でした。その立場から、真相を語り加害者を追及できる立場にありましたが、逆に警察から容疑者として見られてしまいます。この時に「ああ、何かがおかしいな」と。何かどうにもならない、圧倒的な「何か」。どうすることもできないことに直面し、実際にどうにもできない、という絶望感。

この途方もない理不尽に直面した時、どうすればいいのでしょう。「それでもボクはやってない」とか「フルートベール駅で」で描かれたことが、もし自分にふりかかったら?前作のように灼熱の砂漠は出てこないのに、息をするたびに肺が焼けただれるように苦しい。けど、できることは苦しむことだけなのか。

最後に、凄惨な尋問を受けた一人である、バンドのリードシンガー・ラリーのこと。事件後もしばらくバンド活動を続けますが、精神的な傷は深く、バンドを脱退。事件が彼の人生を狂わせてしまいました。ただ、彼から「歌う」ということは奪えなかった。教会の聖歌隊に入隊し、歌い続けるラリー。彼から芸術的な欲求はなくならなかったんです。ビグロー監督も言っているように、これって大きい意味があると思います。何かを表現しようとすること、それ自体はどんな事があっても消せない、ということ。だからこそ、考えなくては、と思います。表現(行動)するために。

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