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13歳の壁を乗り越えろ 第1話

あらすじ
中学1年の子役タレント塩田正樹は、芸能界の壁にぶち当たっていた。中学生になった子役に立ちはだかる『13歳の壁』だ。その壁を乗り越えられずギョーカイを去った子役は数えきれない。一方で、乗り越えれば今後も活躍できるとされていた。その壁を乗り越えるため、正樹は番組で共演している同い年の篠原夢叶と共に新企画を立ち上げる。児童自立支援施設の現状を見つめるドキュメンタリーだ。しかし、放送直前、正樹に関するスクープが週刊誌に報じられてしまう。番組が取材した元不良の少年が施設を脱走。正樹に脱走をそそのかされたというのだ。窮地に追い込まれた正樹。13歳の壁を乗り越えられるのか?

【第1話】

 スタジオの照明は明るすぎて目がくらむほどだ。
 小学6年生のときに番組が始まり、一年が経ったというのに、この眩しさになかなか慣れない。
 赤や黄色に彩られたカラフルなセットの真ん中に、僕は立っている。土曜の夕方に放送している30分のティーンズ向け番組『マサキとユメカnoズバッと解決TV』の収録スタジオだ。
『マサキとユメカnoズバッと解決TV』は、全国の小学生中学生に悩みを投稿してもらい、僕たち子役タレントと教育評論家が解決していく人気番組……と言われていたのは半年前まで。最近は視聴率が低迷していて、人気番組だなんて、とてもじゃないけど口にできない。
 僕の右隣には、共演者の夢叶ちゃんがいる。今日もブスっとした表情。背中に垂れ下がったポニーテールまで、どこか不機嫌そうだ。
 以前はカメラがまわるギリギリまでアニメやヒットソングの話で盛り上がっていたのに、近頃ちょっと様子がおかしい。
「それじゃ、そろそろ本番まいります! 二人とも今日も笑顔でヨロシクで~す」
 フロアディレクターの小池さんが声を張り上げた。
 カメラの上にあるターリーと呼ばれる赤いランプが点灯する。カメラがまわった合図だ。
 僕はいつものように鉛筆を横にくわえる感じで、軽く口を開く。こうすると自然な笑顔を作れるからだ。マネージャーの泉さんに教えてもらった、ちょっとしたテクニック。
 チラリと夢叶ちゃんの様子を窺うと、エクボを作ってニッコリ笑っていた。さっきまでの不機嫌さは、微塵もない。さすがナンバーワン子役女優と呼ばれるだけのことはある。
 床に胡坐をかいた小池さんが、両手をパーにして突き出した。
「10(とう)秒前」
 そこから数字が逆に読みあげられていく。
「5秒前、4、3・・」
 フロアディレクターは、2秒からは声に出さない。だから2から先は、自分の心の中でカウントダウンしていく。ニイ、イチ……。
 秒読みの代わりに大きな拍手が鳴り響き、一拍置いて僕の挨拶で収録が始まる。
「今週も始まりました。マサキとユメカのズバっと解決TV。今日もたくさんお悩みが届いてますので、張り切って解決しちゃいます! 司会の塩田正樹(しおた・まさき)です」
「結構深刻な悩みがきてるって聞いてますよ。両親が離婚するとかしないとか」
「ダメダメ、その先は言っちゃダメ~! 夢叶ちゃん毎回そうなんだから」
 慌てたふうを装って、僕が大げさに夢叶ちゃんの口元を両手で覆う。
 夢叶ちゃんは、慣れた手つきで僕の手をどかし「また余計なこと言いそうになっちゃったぁ」とはにかんだ。そして、カメラに真っ直ぐ向き直り自己紹介に移る。
「ハイ、どんな夢でも叶えちゃう篠原夢叶(しのはら・ゆめか)です」
 収録の度にやっている決まりの挨拶。ギョーカイ用語で言うところのお約束だ。
 相談のさわりに触れて視聴者に興味を持たせる作戦のようだけど、効果があるかどうかは定かではない。
 収録は、隔週の日曜日に2週分をまとめて行う2本撮り。これもギョーカイ用語だ。1本収録するのに、だいたい90分。打ち合わせや休憩を含めると、全部撮り終えるまで5時間ほどかかってしまう。
 出演者は、僕と夢叶ちゃんの他に、ふたりいる。
 ひとりは、ミカ姐の愛称で知られる教育評論家の佐々木美香(ささき・みか)さん。小学1年生の男の子を持つ37歳のシングルマザーだ。歯に衣着せぬ物言いがウケて、いまテレビや雑誌にひっぱりだことなっている。
 もうひとりは、入社3年目の高木智子(たかぎ・ともこ)アナウンサー。比較的歳が近いことから、僕らは親しみを込めて「トモちゃん」と呼んでいた。
 トモちゃんは極度のあがり症で、本番では毎回、ロボットのようにカチカチに固まっている。3年目という経歴を差し引いても、その緊張ぶりはアナウンサーとしていかがなものか。ついつい心配になってしまう。バッチリ決めているピンクのパンツスーツも、頼りなさをカバーするための鎧のようで、なんだか痛々しい。
 オープニングのあとは座っての収録だ。座り順は画面右から、ミカ姐、僕、夢叶ちゃん、トモちゃんとなっている。
 ハプニングが起きたのは、2本目の収録の最中だった。
 いつものようにトモちゃんが、番組に届いたメッセージを読みあげていく。
「中学1年の女子、マキさんからです。今度、両親が離婚することになりました。どちらと暮らすかはあなたが決めなさいと言われていますが、お父さんのこともお母さんのことも大好きで迷っています。正直に言えば、離婚なんてしてほしくありません。でも、それは避けられそうもないようです。どんな選択をすればよいでしょうか」
 この手の相談には、いつもだったら夢叶ちゃんが真っ先に食いつくはずなのに、今日に限ってなぜかダンマリを決め込んでいる。
 ならば僕が先陣を切るまでだ。
「中学生として思うんですけど、義務教育の間は、食事とかの面を考えて母親と一緒の方がいいんじゃないかな」
 教育評論家のミカ姐が、すかさず意見を重ねる。
「確かにそうね。中学1年生っていえば多感な時期で、女子はホルモンバランスも急激に変わってくるし。そういう意味では、正樹君の言うようにお母さんと暮らした方がいいかもしれない。全ての家庭がそうじゃないだろうけど、やっぱり父親だと行き届かない部分もあるだろうから」
 ミカ姐の発言に頷きながらフロアに目をやると、小池さんが画用紙に殴り書きしたカンペを掲げていた。
『カイケツの具体案を!』
 トモちゃんがそれに気づき、背中を叩かれたみたいに声を発した。
「カ、カイケツの具体案を!」
 トモちゃんは、本番にトコトン弱い。カンペに書かれた文字をそのまま読んでしまうのは、いつものことだ。小池さんもガックリ肩を落としている。収録だからいいようなものの、これが生放送だったら……。そんなこと考えたくもない。
 当の本人は、またやってしまったという顔をして、一呼吸おいてから改めてカンペの指示に従った。
「ではミカ姐、マキさんは具体的にどうしたらよいでしょうか?」
「こんな考え方はどうかしら。それぞれと暮らした場合をシミュレーションするの。新生活がどんな環境になるかをイメージしたうえで、どちらについていくかを決める。納得のいくまで時間をかけて。大事なのは絶対に焦っちゃダメってことよね」
 なるほど。その通りかもしれない。僕がウンウンと相槌を打っていたら、隣の夢叶ちゃんがボソッと呟いた。
「だからオトナは、勝手なんだよ」
 聞き取れなかったのだろう、トモちゃんがもう一度言うように促した。
 すると夢叶ちゃんは、ふぅと軽く息を吐いてからイッキにまくしたてた。
「オトナは勝手すぎ。子供の気持ちなんてゼンゼン考えてない。親に振り回   されるのは子供ばっかりで、損な役回りとしか言いようがない。離婚なんてサイテーのサイテーの人間のやることだよね。それ考えると、もうイライラしてくる!」
 あまりの権幕に誰も口を挟めない。
 数秒の沈黙のあと、小池さんが慌てた様子で『高木アナ引き取って』とカンペを出した。ミミズが這ったような汚い字から、焦りっぷりが見てとれる。
 それから本番が終わるまで、夢叶ちゃんは一言も発しなかった。収録後もスタッフに頭を下げる女性マネージャーを尻目に、そそくさと楽屋に引き上げてしまった。付き添っていたお父さんも、申し訳なさそうにしている。
 いつも一緒に来ている夢叶ちゃんのお母さんがいないことに、そこで初めて気づいた。

 夢叶ちゃんの発言はオンエアでカットされていた。そのあとは画面にも殆ど映っていなかった。ずっと仏頂面をしていたからだ。
 当然だろう。僕だって、あんな夢叶ちゃんの顔なんて見たくない。
 リビングのソファで一緒にテレビを観ていた父さんが、リモコンで電源を切った。
「亜希子さんのことがあったからな」
 そう言った瞬間、父さんが「しまった」という顔をした。
 亜希子さんとは夢叶ちゃんのお母さんだ。
 キッチンで夕食の支度をしていた母さんが、父さんを怖い目で睨んでいる。そのあと、チラリと僕に視線を向けたのがわかったけれど、気づかないふりをした。
 居たたまれなくなったとみえる父さんは「風呂でも洗うかな」と声に出しながら部屋を出ていった。お風呂なんて、自分から洗ったこともないくせに。
 なにかある。でも、聞いたところできっと教えてくれないだろう。「オトナのハナシだから」と、軽くあしらわれるに決まってる。
 次、夢叶ちゃんに会ったときに聞いてみようか。でも、すぐに思い直した。腫れ物に触るような今の空気感は、ただごとではなさそうだ。父さんと母さんのふるまいから察するに、深刻度は95%。
 中学生ともなれば、それくらいの機微を掬いとることはできる。「機微を掬いとる」っていうのは、ドキュメンタリーのナレーションの受け売りだけど。
 結局その日は、夢叶ちゃんの話題に触れることもなく、母さん特製のピーマンカレーを食べて寝た。ピーマンの微塵切りが入ったそのカレーは、もともとは僕の好き嫌いをなくすためのメニュー……だったんだけど、僕がピーマン嫌いを克服してからも定期的に夕食に登場している。

 放送日の翌日。日曜の昼過ぎに事務所に呼び出された。
 僕が所属するフラワーキッズプロダクションは、東京の東側の地域にある。マンションの一室を事務所として使っていた。『お金では買えない景色! スカイツリーを一望』という宣伝文句に惹かれた社長が、プロダクションを立ち上げるとき、思い切って購入したという。
 でも、社長室から望む『お金では買えない景色』は、この半年でだいぶ変わった。建設中のマンションがスカイツリーを隠してしまい、かろうじてテッペンの部分が見えているだけ。来客のたびに「いい眺めでしょ」と社長は自慢げだったけど、それができなくなるのも時間の問題だろう。
 応接室のソファで、マネージャーの泉さんがスマホと睨めっこをしている。大学をドロップアウトしてギョーカイに飛び込んだ、茶髪の25歳。「はぁ」とも「ふぅ」ともつかない溜息をついていた。
 タイミングを見計らって「お疲れ様です」と声を掛ける。
 仕事場での挨拶には、僕は決まってこの言葉を使う。通常、ギョーカイでは昼でも夜でも「おはようございます」。だけど、それがなかなか受け入れられない。かといって「こんにちは」や「こんばんは」も、しっくりこない。気づけば、どんなときでも違和感のない「お疲れ様です」を使うようになっていた。
「あ、おつかれ」
 泉さんは、まったくもって覇気がない。いつものことで理由はわかっているけど、念のため、隣に座りスマホを覗いて確認する。
 やっぱり。スマホの画面には、SNSの投稿が表示されていた。『#ズバ解』のページだ。
 泉さんが、親指で画面をスクロールしながら、コメントを読み上げていく。
「ズバ解飽きた。ズバ解に相談するんだったら犬に話を聞いてもらうほうがまだマシ。番組のつまらなさを解決しろよ」
 ズバ解とは、僕らが出ている『マサキとユメカnoズバっと解決TV』の略だ。
 スマホを一人一台以上持つ時代。芸能人は世間の誹謗中傷に否応なく晒されてしまう。書き込む人たちは、相手が中学生だろうがお構いなし。僕らと同じ中学生が書き込みをしているケースだってあるはずだ。
 やっかいなのは、それが拡散されること。根も葉もないウワサ話が、瞬く間に広まってしまう。この前も「ズバ解終了」というデマが拡散されたばかりだ。
 泉さんは書き込みを読みながら、肩を落としたり、スマホに怒鳴ったりしている。しかし、なにせ相手は顔の見えないネット住民。怒りの矛先を向けたところでモヤモヤが残るだけ。最後は茶色い髪を掻きむしり、無理やり気持ちを押し沈める。というのがいつものパターンだ。
 僕はというと、泉さんと違って世間の声はさほど気にならない。文句を書かれれば、もちろん腹は立つ。でも「だから?」という感じ。もっと真剣に番組に向き合っていれば、それなりに怒りや悔しさもあるのだろうけど、いまは正直、ズバ解どころじゃない。僕は別のことで頭がいっぱいだった。
 目の前にたちはだかる大きな壁についてだ。
「それにしても、夢叶ちゃん撃たれまくってるなぁ。可哀想に」
 可愛そうにと言いながら、泉さんはそれほど同情しているふうでもない。「ホラ」と、手にしたスマホを僕に見せてきた。
『#夢叶姫とお呼びなさい』
 #のフレーズは悪意に満ちたものだった。どうせまた、あることないこと書いてあるに違いない。炎上というやつだ。
 発端はひとつの書き込みだった。
  『子役の夢叶に街で写真を一緒に撮ってとお願いしたら断られた。
   しかも、めっちゃ嫌そうな顔をして。
   ちょっと可愛いからって調子に乗るなっつーの』
 夢叶ちゃんへの中傷は瞬く間に拡散された。書き込みが100%言いがかりであることを僕は知っている。現場に一緒にいたからだ。
 あれは商店街の食べ歩きのロケだった。
 本番中、写真を一緒に撮ってほしいと、スマホを手にした女子高生のグループが近寄ってきた。4人か5人いたと思う。
 彼女たちをスタッフが懸命に制止する姿を、僕らは申し訳ないと思いながら横目で窺っていた。その表情を見て、僕らが迷惑そうにしていると受け止めたのかもしれない。調子になんかのってないのに。
 あのとき夢叶ちゃんは、僕に小声で話しかけてきたのだ。「ロケが一段落したら、お姉さんたちと一緒に写真撮ろうね」と。だから、嫌そうにしていたなんて断じてあり得ない。
 これだけネットがザワつきながらも、当の夢叶ちゃんは「反論しても火に油を注ぐだけ」と、公式のインスタで発言することもなく、無視を決め込んでいる。
 それがいけなかった。スルーしたことで、さらにネット住民の怒りを買ってしまったのだ。皮肉を込めて『夢叶姫』と呼ばれるようになり、SNSでの集中砲火はますます激しくなった。
『子供なのにグリーン車でふんぞり返ってた』
『応援メールを送ったのに返事をくれない』
『声が大人びていて可愛くない』
『ポニーテールやめてほしい』
 ホントのことを知らないのに、なんでこんなことを平気で投稿できるのか不思議でならない。
 グリーン車は混乱を避けるため。もちろん夢叶ちゃんは、ふんぞり返ったりなんかしない。
 メールの件に関しても、ちゃんと理由がある。今のご時世、相手のメールに直接返事を書く子役は、まずいない。たいがいの事務所は、ファンとの個人的なやりとりを禁止している。その代わり夢叶ちゃんのプロダクションでは、応援メッセージをくれた相手に、お正月に写真とサインの入った年賀メールを送っているという。アイドルに対し、ファンからのストーカーまがいの迷惑行為が相次いで、そういった配慮がとられるようになったと聞いている。それをわかってもらえないのが、もどかしい。
 標的が今をときめく子役スターということもあり、週刊誌もこのネタに飛びついた。写真を一緒に撮ってくれなかったと書き込んだ女子高生のロングインタビューを掲載し、話題をさらった。そのときの電車の中吊り広告の見出しは、恐ろしく酷いものだった。
『公衆の面前で私を弄んだ夢叶姫 女子高生Aの独白』
 紙面には、女子高生Aさんの言い分だけが書かれていた。このときも夢叶ちゃんは「言いたければ言わせておけばいい」の一点張り。
 毅然とした態度で何事にも動じないメンタルの強さは、長い芸能生活によって育まれてきたものに他ならない。
 2歳から芸能活動を始めた夢叶ちゃんは、12歳にして芸歴10年。大人顔負けの演技力で「天才子役」と呼ばれ、出演したドラマや映画も数え切れない。
 小学6年で映画初主演を果たすと、スポーツ新聞社主催の映画賞で史上最年少の新人賞に輝いた。表現力が子役の域を超えていると、名だたる評論家も賛辞を惜しまなかったほどだ。
 もしかしたらその大人びた部分、言い換えれば、子供らしくない部分を快く思わない人がいるのかもしれない。
 スマホを見ていた泉さんが、顔をあげてニヤッと笑った。
「このまま、もし夢叶ちゃんが干されちゃったら、ズバ解の司会は正樹ひとりで頑張らなくちゃならないなぁ。となれば、オープニングはワンショットの一人喋りからか。うん、ウチにとっては悪くないかも」
 ウチという言葉を使って連帯感を出すあたりが、ちょっと嫌らしい。少なくとも僕は、本番で隣に夢叶ちゃんがいないというのは考えられない。一人で番組を仕切るなんて、まず無理だ。
 部屋のドアが勢いよく開き、100キロ近い巨漢を揺らしながら花林社長が入ってきた。額に玉のような汗をかいている。
「悪いな、待たせちまって」と拝み手をしながら、でも悪びれた様子はみられない。
「局のプロデューサーに、秋の新番組に正樹を使ってもらえないか掛け合ってたんだ。ファミリー向けのクイズ番組なんだけど、ナレーターでどうですかって売り込んだら向こうも乗ってきてさ。若干の手応えアリってとこだな」
 若干の手応えアリは毎度のことで、いつも若干の手応えのまま話は立ち消えてしまう。
「それで社長、話って何ですか? オフの日にわざわざ呼び出すってことは、それなりに大事なことですよね?」
 泉さんが社長の顔を覗き込む。
「あぁ。きょう二人に来てもらったのは、正樹の今後について話し合うためだ。ズバ解のプロデューサーから連絡が来て、秋からの存続がどうもヤバイらしい」
「ヤバイって、打ち切りってこと? だとしたら、ホントにヤバくない?」
 語尾を上げて聞き返す泉さんの表情が曇った。
「まぁ、そういうことだ。夢叶ちゃんの炎上の件もあって、局もかなりピリピリしてる。それでだ、正樹。前から話してた移籍の話だけど、どうする? お前がタレントとして飛躍するためには、ちゃんとした芸能事務所と契約するのも一つの手だと思うんだが」
 いまそれを言われても困ってしまう。
 実は、6年生の3学期あたりから、移籍話を持ち掛けられていた。
 移籍先にあがっているプロダクションは、俳優から芸人、アイドル、モデルまでを抱える巨大グループ。かつて花林社長と一緒に働いていた人が、マネージメント部の統括部長をやっていて、声をかけてくれたという。
 有り難いけど、複雑だ。
 返事に困って横を向くと、壁にかかった額縁の書が目に入った。
『子供の笑顔は咲き誇る花の如く』
 お世辞にも上手いとは言えない社長がしたためた社訓だ。フラワーキッズというプロダクション名も、この社訓に由来している。
 咲き誇る花の如く。
 その言葉とは裏腹に、いまはどこの子役事務所も勢いがない。昼過ぎの朝顔のように、萎んだ状態になっている。
 そもそも、子役事務所への登録は、大きくふたつの形態にわけられる。所属と契約だ。
 所属タレントは月謝やレッスン料を納めながら籍を置き、オーディションを受けて合格すれば仕事にありつける。一方、契約は、月謝などの支払いはなく、仕事も会社がとってきてくれる。
 どこのプロダクションでも、概ね子役は、契約タレントにならないと満足のいくギャラは得られない。僕はフラワーキッズで、唯一の契約タレントだった。
 フラワーキッズの所属になったのは3年前。花林社長が大手子役プロダクションから独立するタイミングで一緒についてきた。つまり、フラワーキッズの創立メンバーというわけだ。
 そのとき僕と一緒に7人が移籍してきたけど、いま残っているのは僕だけ。7人は小学校の卒業を機に、波が引くように花林社長のもとから離れていった。
 本格的に役者をめざしたいからとドラマ系に強い俳優事務所に移ったり、路線変更したいからとアイドルのプロダクションに入り直したり。
 子供たちが活躍できるならと、社長も移籍に寛大だった。
 そんなふうにお人好しだから事務所がピンチになってしまうのだ。

第2話

第3話

第4話

第5話

第6話

第7話

第8話

第9話

第10話


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