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#1「円覚寺管長 横田南嶺氏に学ぶこれからの生き方」

「今こそ⾒つめ直していただきたい、『怨親平等』の精神」

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私は、幼い頃より「死」について考えていました。
きっかけは、私が2歳の時に祖⽗を亡くしたことです。それが、私にとっての記憶の始まりです。⼩学⽣の時には、同級⽣が⽩⾎病で亡くなりました。そして、死というものは、いつくるかわからないと思うようになったわけです。学校の勉強では、死について教えてくれません。⼩学⽣なりに考えて、「死とは何か」を知るべく、お寺に⾏ってみたり、教会に⾏ったりしているうちに、坐禅と出会いました。

坐禅をしていれば、⾃分⾃⾝への問いに対する何かを⾒つけることができる、そう直感で思ったのが10 歳の時です。それから、⾃宅近くのお寺で⾏われていた、⽉2〜3回の坐禅会に参加するようになりました。次第に、それだけでは物⾜りなくなり、⾃分で毎⽇坐禅をしようと決めたのです。
中学時代には、臨済宗の禅僧で、円覚寺の元管⻑でもあった朝⽐奈宗源⽼師のご著書を読みました。その本には、⽼師が4 歳の時にお⺟さまを亡くし、7 歳でお⽗さまを亡くして、両親は⼀体どこへ⾏ったのだろうと思い続け、坐禅をすることでその疑問が解決した、と書いてありました。

私が⾼校⽣の頃に⽼師はお亡くなりになり、直接お⽬にかかることはできませんでしたが、私と円覚寺との出会いが、このご著書でした。
⼤学進学で茨城県に移り住みましたが、そこでは⾃殺が多かったのです。学友も、何⼈も⾃殺をしました。最初のうちは驚いたり、悲しんだりしましたが、次第に感覚が⿇痺していくのですね。「死とは何か」という問いが、さらに深くなっていきました。その頃も坐禅は続けていましたが、本格的に坐禅を学ぼうと思い、⼤学在学中に出家得度しました。

⼤学卒業後は、京都建仁寺僧堂に⼊り、3年ほど修⾏をしました。修⾏時代、私は坐禅をやりたくて仏⾨に⼊ったのに、実際にやらされるのは雑⽤ばかり。⽇中の雑⽤を終えて、ようやく、夜に坐禅をしようと思っても、疲れ切っているので眠ってしまいます。⾃分は何をやっているのだろうと絶望に打ちひしがれていたある⽇、夜の⽉明かりが私をサーっと照らしてくれました。その瞬間に、「暗闇があれば、その分、光もある」と感じ、この道を迷わず進もうと決意したものです。

1991 年には、ご縁があり鎌倉へやってきて、後に円覚寺僧堂師家に就きました。朝⽐奈⽼師のおられた、円覚寺です。私にとっては、聖地のような場所で修⾏ができるようになり、⼤変ありがたく思いました。
鎌倉は、⾃然が豊かです。⼭があり、海がある。⼤らかな雰囲気もある。まるで、浄⼟のようなまちです。鎌倉は、なんといいところだろうと思ったものです。

気づけば、あれから30年の⽉⽇が流れました。東⽇本⼤震災後には、「鎌倉宗教者会議」というものがつくられました。これは、宗教の違いを乗り越えて集い、震災の復興への祈りと追悼を捧げるもので、円覚寺も参加し、私は副会⻑の⽴場で、昨年まで10年間続けました。こういうことができるのも、鎌倉ならではだと思います。

円覚寺には、敵も味⽅も平等に供養する「怨親平等」という精神が息づいています。円覚寺の開基は、鎌倉幕府第8代執権の北条時宗公で、元寇の折に、モンゴル帝国の戦没者の菩提を弔うために開きました。怨親平等の精神は、⻑く⽇本⼈に受け継がれましたが、明治維新の頃から崩れていきます。いつしか、敵は排除するという考えが、現代に⾄るまで、⽇本⼈に定着しつつあります。⾮常に残念です。禅とは、戦わない⽣き⽅のこと。争わない⽣き⽅のこと。多様性を認めること。「死」についての解を探すべく坐禅を続けた先に、私はこの考えに⾏き着きました。
怨親平等の精神を、今⼀度、⽇本⼈に⾒直してもらうためにも、ここ円覚寺から発信していきたいと思います。



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