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#10 鎌倉文学館 館長 富岡幸一郎氏から学ぶ「言葉とは、人間に与えられた最大の力」

 鎌倉にゆかりのある文学者は、250〜300人くらいはいると思います。関わり方によって異なりますが、何らかの形で鎌倉に縁があるという括りで考えると、それくらいの人数になります。歴史はあるもののそれほど大きくはないまちに、これだけの文学者が集うというのは、他の地域にはないことです。

 鎌倉は別荘地や保養地として開けてきたのですが、文学者が集うようになったのは、横須賀線が通った明治22年以降が中心になります。

 たとえば、夏目漱石は「坊っちやん」を書く前に、円覚寺に座禅を組みに来ています。悩み多い漱石ですから(笑)。芥川龍之介も「羅生門」を世に出す時に、新婚生活を鎌倉で送っています。

 鎌倉に集う文学者たちのことを「鎌倉文士」と呼びますが、鎌倉に生まれ、鎌倉で育ち、鎌倉で亡くなった文士は、おそらく一人しかいません。それは、源実朝公です。実朝公は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも大変な人気になりました。

 実朝公は、生涯、ほとんど鎌倉から出ていません。那須に行って狩りをしたという歌を詠んでいますが、空想歌と考えられています。宋に渡ろうとして由比ヶ浜で船をつくりましたが、あれは実朝公が政治のしがらみから自由になり、遠くへ行きたいという願望の表れだったのではないでしょうか。

 素晴らしい歌を数多く後世に残している実朝公は、元祖・鎌倉文士といえます。現在も、実朝公にまつわる俳句大会や、短歌の会などが、鎌倉でたくさん行われています。

 ただ、厳密な意味での鎌倉文士となると、特に昭和前半に鎌倉へ集まった作家・評論家・詩人たちを指します。漱石や芥川は、鎌倉文士ではありません。

 昭和8年に、小林秀雄・川端康成・林房雄・深田久弥の若い4人の文学者たちが「文學界」という同人誌をつくります。昭和6年に満州事変が起き、昭和12年には日中戦争が勃発する、戦争の時代です。日本ではだんだん言論統制が厳しくなり、自由な言論ができなくなっていく中で、いろいろな主義主張の党派を超えて集まり雑誌をつくろう、となったわけです。全員、原稿料や印税で生活をするプロの文学者たちでしたが、あえて自分たちで同人誌をつくろうと鎌倉に集まってきました。鎌倉を選んだのは、東京から近く、家賃も安く、気候も良いからということだったようです。

 そうして「文學界」そのものは数年で発展的に解消しますが、その関係者がどんどん増えてきて、昭和前半に鎌倉に文学者たちが集まるようになりました。その鎌倉文士たちが鎌倉ペンクラブをつくり、鎌倉カーニバルというお祭りも開催しました。そうなると、当時の鎌倉市民との交流が深くなっていき、鎌倉文士たちが鎌倉の地域おこしを担いました。

 昭和20年5月、戦争が終わる少し前には、若宮大路に鎌倉文庫という貸し本屋ができました。戦時下にあって、鎌倉文士たちは原稿が書けない。鎌倉市民は本を読めない。そこで、鎌倉文士たちが持っていた本を貸し出したわけです。その光景を見て、川端康成は「鎌倉には、日本で一番自由な風が吹いている」と言っています。

 鎌倉文学館では、そんな鎌倉文士たちを中心に、鎌倉にゆかりのある文学者たちの資料収集と常設展を行っています。また、春と秋には、鎌倉文士に限らず、テーマを決めて特別展も開催しています。

 鎌倉文学館もそうですが、鎌倉には、歴史関係の博物館や宝物館、近代美術館など、様々な文化施設があります。それほど大きくないまちに、これだけの文化施設があるというのは非常に恵まれていると思います。鎌倉の文化意識はとても高く、文化に関心のある鎌倉市民も多いです。ただ、この鎌倉の文化をもっと日本中、世界中に広く発信をしていく必要性は感じています。

 人間だからこそできることというのはいろいろとありますが、言葉を用いて表現するというのが、人間の根本的な特徴であると思います。言語能力というのは、人間に与えられた最大の力です。

 「文學界」が生まれた時代のように言論の自由を奪われるということは、人間にとって最大の危機です。そんな時代を繰り返さないことを願いつつ、私たちは言葉を大切にして、言葉の力を最大限に活かして生きていくべきではないでしょうか。

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