どこまで人を許せるか_塩見志満子

1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書より~

◆経歴

塩見志満子氏。1936年(昭和11年)愛媛県生まれ、日本女子体育大学を卒業。
東京都立中学校教員、愛媛県立高等学校教員、愛媛県立養護学校教員を歴任。養護学校に勤務中に障害児教育に関心を持ち、教職を退職後、知的障害者が自由に集える場として「のらねこ学かん」を自費で建設。
ボランティアの支援で障碍児・者、心を病む人、不登校の人たちと向き合っている。
(https://worldkikaku.jp/shiomi_shimako/より抜粋)

◆プールで亡くなった次男

子供たちが集まってきて「ごめんよ、おばちゃん、ごめんよ」と。「どうしたんや」と聞いたら十分の休み時間に誰かに背中を押されてコンクリートに頭をぶつけて、沈んでしまったと話してくれました。

◆許すということ

新聞社が来て、テレビ局が来て大騒ぎになった時、同じく高校の教師だった主人が大泣きしながら駆けつけてきました。そして私を裏の倉庫に連れていって、こう話したんです。
「これは辛く悲しいことや。だけど見方を変えてみろ。犯人を見つけたら、その子の両親はこれから、過ちとはいえ自分の子は友達を殺してしまった、という罪を背負って生きていかないかん。(中略)うちの子が心臓麻痺で死んだことにして、校医の先生に心臓麻痺で死んだという診断書さえ書いてもろうたら、学校も友達も許してやれるやないか。」

◆命日の花

許してあげてよかったなぁと思うのは、命日の7月2日に墓前に花がない年が一年もないんです。30年も前の話なのに、毎年友達が花を手向けてタワシで墓を磨いてくれている。
もし、私があの時学校を訴えていたら、お金はもらえてもこんな優しい人を育てることはできなかった。そういう人が生活する町にはできなかった。心からそう思います。

◆感想

「自分だったらこの判断ができるだろうか。」
まずそう思いました。とても苦しい決断だったと思います。
それでも、犯人の子の両親にまで想いを馳せ、許すという結論を導き出したこと、ただただ凄い覚悟だと感じます。
過ちで死なせてしまった友達はひと時も忘れることはないでしょう。
「天知る、地知る、我知る」ではないですが、本人は分かっているのです。
許されたからこそ、自分自身と向き合い、30年以上お墓参りを続けているのだと感じました。
真の教育者はこうあるべきなのかと衝撃を受けました。
ただ、「許す」人が増えれば「優しい」人が増えるのだとも感じました。
糾弾する人ではなく、許す人で在りたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?