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【鎌倉殿通信・第15回】「関東の爪牙耳目」と称された、大江広元

鎌倉幕府の執権といえば初代北条時政に始まり、歴代北条氏が就任したことは広く知られていると思います。しかし、北条氏の出身ではないにも関わらず、室町時代ごろの系図などに「執権」と書かれた人がいることをご存じでしょうか。その人物こそが文士として活躍した大江広元おおえのひろもとです。

幕府草創期の「執権」の位置付けについてはさまざまな考え方があり、広元を歴代の執権としてカウントするかどうかは諸説あるところです。しかし「関東の爪牙耳目そうがじぼく(耳目となって助けるしん)」と称されるなど、将軍の最側近として重要な役割を果たした人物には違いありません。広元の活躍がなければ、鎌倉幕府は存続し得なかったといっても過言ではないでしょう。

広元は京都の貴族・中原広季なかはらのひろすえの養子で、実父は大江維光これみつとされています。久安きゅうあん4年(1148)に生まれ、朝廷の実務官人となり京都でキャリアを重ねていきました。しかし源頼朝が挙兵すると、鎌倉に下向します。儒学を専門とする学問の家に育ち、行政の実務能力を備え、京都に人脈を持っていた広元は、戦地に赴かず京都との交渉や鎌倉幕府の整備に活躍しました。そして、政務を行う公文所・政所まんどころが設置されると、その長官(別当)となります。

頼朝の死後、二代将軍頼家にも側近として仕えますが、有力御家人らの対立からは距離を置いた立場をとります。三代将軍実朝さねともの代になると、北条氏との協調関係を保ち鎌倉殿の政治を補佐しました。

承久じょうきゅう元年(1219)に実朝が甥の公暁こう/くぎょうに殺され、それまで良好であった後鳥羽院と幕府の関係が悪化します。院が義時追討の兵を挙げると、幕府では足柄・箱根で迎え撃つか、京都へ進撃するかで意見が分かれました。広元は進撃を強く主張し、幕府の勝利に貢献します。京都の内情と鎌倉の機微を知る、広元らしい選択だと言えるでしょう。嘉禄かろく元年(1225)、病により78歳で亡くなりました。

広元の息子のうち、四男季光すえみつ相模国さがみのくに毛利荘もりのしょう(現在の厚木市および愛川町付近)を本拠とし、毛利もうりを名乗ります。季光は北条泰時に重用され、幕府の中心人物の一人として活躍しましたが、北条氏と三浦氏が対立した宝治合戦ほうじかっせんで三浦方につき、四男の経光つねみつを残して滅亡してしまいます。しかし、宝治合戦で生き残った経光の子孫は、後に近世大名・毛利氏へと成長していきます。

毛利氏と鎌倉の関係は深く、江戸時代の文政六年(1823)には、毛利斉熙なりひろの命で、北条義時法華堂ほっけどう跡の裏山に大江広元墓が造営されました。

【鎌倉歴史文化交流館学芸員・大澤泉】(広報かまくら令和4年11月1日)