【鎌倉殿通信・第2回】北条義時とは何者か
皆様、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
さて、いよいよ大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送が近づいてまいりました。準備は万端ですか?ぜひこの「鎌倉殿通信」も参考にしてくださいね。
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さて、大河ドラマの主人公・北条義時(1163~1224)について、皆さんはどんなイメージをお持ちでしょうか。承久の乱後、院や天皇を流刑に処したことからダークな印象をお持ちの人、そもそもよく知らない人もいるかもしれません。一言でいえば、義時は「鎌倉150年の歴史の礎を築いた人物」です。
義時は、伊豆国田方郡北条(現・静岡県伊豆の国市)に生まれました。父は時政、母は伊東氏の娘で、姉に六歳年長の政子がいます。伊豆に流された源頼朝と政子が結ばれたことで、義時の人生は一変。北条氏は頼朝の挙兵に協力し、鎌倉に入ることになります。
建久10年(1199)に頼朝が亡くなると、いよいよ義時は政治の表舞台に登場します。新しい鎌倉殿・頼家を支える十三人に選ばれ、畠山氏や比企氏などの有力御家人との戦いでも活躍しました。その後、幼い実朝が新しい鎌倉殿になると、父・時政が政治の実権を握ります。義時はこうした北条氏の台頭を支えましたが、最終的には父を隠退させ、姉の政子と政治の主導権を握りました。
建暦3年(1213)には有力御家人の和田義盛を滅ぼし、幕府内での北条氏の地位を確実なものとします。しかし、承久元年(1219)、実朝が甥の公暁に暗殺され、義時は次の鎌倉殿の選出に迫られます。そこで、皇族から迎えることを考え、朝廷と交渉するも不調に終わります。結局、摂関家の三寅(後の藤原頼経)を迎えますが、実朝の死を契機に、幕府と朝廷の関係は悪化していきました。
承久3年(1221)5月、ついに承久の乱が勃発しました。後鳥羽院は義時追討宣旨を全国に発給し、兵を挙げます。この未曾有の事態に、義時は19万もの大軍を京に送り込み、勝利しました。これにより幕府の武力が朝廷を圧倒し、義時は幕府における最高権力者の地位を得ました。もし京方が鎌倉に攻め込んでいたら、その後の都市鎌倉の発展はなかったかもしれません。
この三年後、義時は亡くなり(享年62)、お墓は頼朝の法華堂の東隣に建てられました。このことは、義時が頼朝と並び得る人物として認識されたことを物語ります。承久の乱の勝者となり、鎌倉のまちを守った義時は、頼朝とともに幕府の創始者として評価されたのでした。
【鎌倉歴史文化交流館学芸員・山本みなみ】(広報かまくら9月1日号)