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鎌倉殿通信-note版-

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#吾妻鏡

鎌倉殿通信、はじめます!

こんにちは。鎌倉歴史文化交流館・学芸員の大澤です。 いよいよ来年の1月から、北条義時を主人公とする大河ドラマ「鎌倉殿の13人」がスタートしますね! 当館の職員は、今にも「もぉ~い~くつ寝ると、鎌倉殿の13人~♪」と歌いだしそうな勢いです。 一方で、   ん!?    北条義時って誰?    鎌倉時代ってよくわからないな そんな方々も多いのではないでしょうか。そんな皆様の疑問にお答えすべく、交流館では、広報かまくら8月1日号から「鎌倉殿通信」の連載をスタート! 鎌倉幕府草

【鎌倉殿通信・第13回】『吾妻鏡』のひみつ

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の放送が始まって以降、『吾妻鏡』という名前をよく耳にするようになりました。『吾妻鏡』は鎌倉幕府によって編纂された公式な歴史書で、鎌倉の歴史を知る上で基本となる史料です。治承四年(1180)4月、以仁王の令旨(命令の文書)が源頼朝の元に届くところから始まり、親王将軍宗尊親王が京都に戻るまでの出来事を編年で記しています。編纂時には、京都の貴族の日記や文学作品、各家に伝来した古文書、幕府関係者の日記など、膨大な史料が参照されました。 しかし、残念ながら

【鎌倉殿通信・第9回】北条義時の邸宅はどこか!?

鎌倉の有力な御家人は、一族で複数の屋敷を持っていました。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』を見ると、北条義時の邸宅も複数あったことが分かります。 一つ目は、建保元年(1213)に起こった和田合戦の記述に登場する「小町上」の邸宅です。この邸宅は、現在宝戒寺が建つ場所にあったと考えられているので、仮に「宝戒寺小町亭」と呼ぶことにしましょう。ここは義時の弟・時房の所有となった後、五代執権・時頼の邸宅となりました。その後、北条氏の嫡流・得宗家に伝領され、鎌倉幕府滅亡の際は高時の邸宅となって

【鎌倉殿通信・第5回】頼朝以前 ー源頼朝はなぜ鎌倉を選んだか

もし皆さんが鎌倉の歴史の説明を求められたら、どの時代からお話をしますか?多くの方は源頼朝が挙兵し、鎌倉に幕府を開いたところからはじめるのではないかと思います。 では、頼朝以前の鎌倉はどのようなところだったのでしょうか。 第5回の鎌倉殿通信では、少し時代を遡って、頼朝挙兵以前の鎌倉の歴史を紐解くことで、頼朝が鎌倉を選んだ理由を考えてみたいと思います。 古くは、鎌倉幕府の公式の歴史書『吾妻鏡』に、次のように記されています。 「所素辺鄙、而海人野叟之外、卜居之類少之、」 ー