『USAKAME2020』
「亀、すごすぎ」
「不可能ってないんですね」
「ウサギwww」
こんもりと盛り上がった丘の上。集まる動物たち。
歓声とも揶揄ともつかぬざわめきが広がる。
風はなく、照りつける太陽は光と影を作った──。
「どうして──」
俺はただ呆然と亀の勝利に沸く森の仲間たちの姿を見ていた。
満面の笑顔の熊、チラチラと俺の顔を見て嘲笑する鹿、亀の甲羅に頬ずりするリス。
あいつら……。
自分の敗北がこんなにも笑顔を生むなんて──。
視線を感じた。亀がこっちを見ている。一万年生きている深い目だ。
その奥底にある不屈の光がかすかに煌めいた気がした。
しかし、亀は何も言わない。
立ち尽くす俺の影は、いつしか野原に長く伸びていた。
「おかえりー、遅かったね……えっ、お父さん。どうしたの、その脚っ」
家に着くと大きめのニンジンをかじっていたジョンがすぐに異変に気づいた。俺は後脚が動かなくなっていた。家まで前脚だけで体と脚を引きずりながらの移動。
足と腹は傷だらけだった。うっすらと血も滲んでいる。
「ジョン……少し休ませてくれ。わらを敷いてくれるか……」
「うん、喋らなくていい。喋らなくていいよ、お父さん!」
「あ…りが…と…ぅ…」
意識が遠のいていく。ジョンが敷いてくれたわらはほんのり温かかった。
小鳥のさえずりで目を覚ました。
痛っ。まだ、腹に鈍痛が走る。起きあがろうとするが、後脚に力が入らない。無理だ、動けない。
「あっお母さんっ。お父さん、起きたよっ」
ジョンの無邪気な声が大きく穴に響く。
「……無理して起きないで。今、ニンジンを持ってくる」
キャシーの声は尖って聞こえるが、彼女は一番優しい時に照れ隠しで少し怒ったような態度をとる。ありがたい。
「……三日も寝てたよ。何があったのさ」
「あぁ、ちょっとな。負けるはずのない勝負に、負けた」
ため息が聞こえる。
「ふん、負けるはずのない勝負なんてないんだよ。そんなこと言っている時点で、あなたは自分に負・け・た・の。まぁ無理しないで」
吐き捨てるようにキャシーは言って、穴の奥へ消えた。ニンジンがいつもより細かく砕かれていた。
一週間が経ち、腹の傷は癒えた。でも、後脚は動かない。静養は続く。キャシーとジョンは、食料を探しに出かけた。
ふぅ。
脚が動かないウサギは、どうなる──。
死、か……。
奥へと続く暗がりを見つめて独りごちた。
ズズッ。洞穴の外でわずかな音がした、誰だ。
鼻をひくつかせて気配を探る。
並々ならぬ存在感。
まずい。動けない。食われる──。
絶望感が視界を濁らせた時、やおら発せられた声が穴にこだました。
「わしだ。……亀だ」
亀──。
今さら何の用だ。
動けない無様な俺を嘲笑いにでも来たか。
またフラッシュバックする。何度も夢に見た刹那的な虚無。白濁した俺の意識に、黒い絵の具が混ざっていく。
「……帰ってくれ」
掠れ、震えていただろう。やっとのことで出た声は、亀に届いたか。
「心が君を止めている」
亀は続ける。
「君は私に負けた。でも、脚が動かないのは、私に負けたせいではない」
亀はそう言い放って、足の角度を慎重に変えながら私に尾を向けた。
這う。擦る。止まる。
やはり──遅い。
「お父さん、ウサギってもう滅びちゃうのかな。僕たちは草に生かされているんだ。要するに『草』なんでしょ。もう、終わりだよ。全生物に笑われながら生きるしかない」
『草の見分け方』と書かれた教科書を開きながら、つぶらな瞳いっぱいに水膜が張っていく。
「それは違う。違うぞ。俺たちが食べているのは草だけじゃない」
「違わないよ!」ジョンの怒鳴った声が穴の中でエコーする。
「お父さん、僕、みんなからめちゃくちゃ笑われたよ。亀に負けるなんて。そんなの聞いたことない。草だよ。僕は、僕は……」
ジョンの涙は、若く艶やかな毛に優しく吸収されていった。
「ごめんな、ジョン。俺が不甲斐ないばかりに……」
言葉が続かなかった。言えることはなかった。
ジョンはこちらをしばらくじっと見ていたが、ややあって前脚と後脚を伸ばしてあくびをしたかと思うとそのまま、ゆっくりと目を閉じた。
また、長い夜が始まった。
悪夢にうなされるくらいなら、いっそ寝ない方がいい。
心が君を止めている──、か。
俺は、なんのために進み、走り、跳ねるのか。
考えたこともなかった。
風を切り、走る。前、後ろ、前、後ろ。
前後の脚で力強く地面を蹴り、舞うように跳ねて野原を駆ける。
空気を切り裂き、草がなびく。景色は置き去りになっていく。
曲がる時は前脚の動きをセーブ。後脚で跳ぶ幅を大きくし、正確に弧を描くように方向を変える。
多くの動物はついてこれず、姿を見失う。
そして、俺は悠々と穴に帰還する──誇りだった。
ウサギは、速い。紛れもなく。
でも、それはなんのため?
なんのため……。
温かい。脚が温かい。
微かな光が差し込み、俺は目を開ける。
気づくと、後脚にジョンがくっついて寝ていた。心地よい温もりだ。
ジョン、キャシー、ありがとう。小さな家族だが、俺には守るべきものがある。守らなければいけない。
それ以上に大切なものなんて、ない。
俺は『誇り』のために走っていたのかもしれない。
速いことこそが、俺の価値であると──そう、ウサギプライド。
だから、速くないことを突きつけられたその時、俺の脚は動かなくなった。原動力を失った。
なら、それなら、そんなプライドはいらない。
大事なのは……俺の兎生そのものと言える無二の愛しいこの家族だ。
「お父さん、蹴らないでよー」
ジョンが、寝言のように言う。優しい声だ。
……蹴る?
俺は──蹴ったのか?
脚が──動いたのか。
「うわぁ」
俺の下半身にもたれかかっていたジョンが転がった。
「イタタタ……えっ、立った。お父さんが立った!」
15cm視界が上がるだけで、世界はこんなにも広く、大きく、そして温かい。
横にいるジョンと、真後ろで赤い目を煌めかせるキャシーの姿を視野が捉えた。
秋が近い。
空は高いが、まだ強い日差しが木々に降り注ぐ。
数日間続いた雨も上がった。草についた小さな水滴たちは、輝きのアピール合戦の様相だ。
三羽で穴の外に出る。
心なしかいつもより足が土にめり込んだ気がした。
「脚が動かないウサギなんて、ライオンに食べられて死んじゃうんだからね。もう勘弁してよ」
キャシーはそう言って、三歩先まで跳ねて止まった。俺とジョンが追いついて並ぶ。
真上にある太陽は、足元にだけ黒くて濃い丸い影を作った。
この上なく色鮮やかに見えたその輪っかの連なりをほどきたくなくて、俺は動くはずの後脚を踏み出すことができなかった。
おしまい
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