29歳、転職3回・4社目まだ生きていける
これまでの転職歴を思い返すと非常に耳が痛いというか頭が痛い。
まず、大学卒業時にそこまでやりたいことをしっかり考えていなく・・・向いていることへの考察を怠った自分はなんでもできる総合力がつく会社を志望し、コンサルに絞った。が、それは事実とはまた違う思い込みでもあり、世の中の専門性を蔑ろにした考えだった。その誤解の解かぬまま、飲食店が好きだという理由で飲食店のコンサルティング会社に入るが、一瞬で幻想を打ち砕かれた。まず、コンサルティング業務をつい先日まで大学でのほほんと勉強とバイトだけしてきた人間ができるわけもなく、お抱えの飲食店へ研修後配属された。
研修も非常に凶悪で、座学はとにかく満点以外叱責され、同期には失笑され(完璧にこなす意識・・・プロ意識の欠如が後々も尾を引いている)、ただの飲食バイトの状態になり、レジミスを犯しバイトから怒られるとにかく惨めな3か月を過ごした。3か月目に本採用は出来ない旨を伝えられ、すぐさま職を失うことになる。
当時、実家から出ていた自分はこれは本当にまずいとすぐさま転職活動を行い、近くの野菜の卸売会社へ営業として入ることになった。卒業1年目で2社目・・・では済まないと知ったのは年明けでした。
野菜の卸売会社では研修と称して商品管理部へ配属。営業としての研修かどうか不明なまま店舗ごとに仕分けし野菜の箱詰めを行う作業を行っていた。そのうち、なぜかシフト作成・ピッキング業務が回るように下準備、クレーム対応・クレーム発生後の改善業務まで担当していた。クレームが起きるたびに先輩へ長文で理由を考え改善方法についてメールを送りそんなことでできるのか?と否定を繰り返されながらなぜかピッキング工程の改善業務を行っていた。この時の先輩は本当に怖くて、「人手不足で足りないので〇〇さんを次ここへ入ってもらうことができませんか?」と尋ねると当てにするなと叱責する。人手不足によりいろんな人に残業してもらっていたのでそれを踏まえて簡単に人にやってもらおうとするなという意図の発言だった。(とのこと)残念ながら、シフト作成し人が足りないミスを自分で補う事になった僕は帰る時間が異常な時間になる。朝9時・12時に出社し、夜11時か、12時頃に帰り、ご飯もいつ食べたかよく覚えてなく、いつ炊いたか忘れた炊飯器の中にはカビと蛆虫がびっしりのごはんがあったことに戦慄を覚えたころには年明けになっていた。もうそのころには身体は限界で、人が足りないので休みも少なく寝る時間も少なく、特に考えて何かを変えていける人材の希薄さが地獄に拍車をかけていた。業務全体を見渡し、効率化・人員の適正化・配置やピッキングミスを減らす方法の模索等のソフト面の見直しができる人がいなさ過ぎたが故に地獄を放置した結果になっていたのだと思う。教育のできる人・改善提案を行い上の人を巻き込める人なんて言う人がいれば多分普通にこの会社にはいないだろうが。年が明けて少ししたころにはこのままでは何も出来ない・何もならないしスキルもつかない・ただの屍になると悟り、そして関わりが薄いが人の良い夜勤の社員から今のうちに何とかしろと言われやめることにした。引き止めはかなりあって、家まで課長に来られたがなんとかやめれた。そして奈良の実家に帰った。一人暮らしをしていた大阪の家まで荷物を取りに来てくれて、家に戻らせてくれた親には本当に感謝しかない・・・父親が起こした強烈な事件があるまでは。
2社目を順調に退職した私はまだ営業への夢を諦めていなかった。なぜここまでこだわるのか・・・売り上げをあげるだけでなく折衝業務を行い代表した立場で対応したい、売るにあたって工夫し最適な形で製品を提供したい。という気持ちは捨てられなかった。後、大学4年で体験した企業の仕事のロールプレイゲームでやった営業でどんどん皆を引っ張り動いていく立場で班員の方からも姿勢を評価してもらえたことから営業に向いているんじゃないか、と期待していたところもある。実際はもっと複雑な要素の中で仕事するのでそんなに単純ではなく、自分の性格・スキルや適職に対する考察・検証の甘さがその後も自分を苦しめることになる。
自宅に戻り、1か月はプラプラしながら仕事を探し、手に職つけながら営業したいなーと技術系の営業を探すとボイラーの販売・修理の会社があり応募して面接(形だけ)をして即合格になったので1週間後から働くことになった。この会社では、以前の仕事を遥かに超えるハードさを味わうことになった。まず、作業環境が過酷すぎて異常だった。冬はなんとかなるが、夏場は40~50度を超えるボイラー室で正確に寸法を取りながら配管ルートを考えて施工していく。これに慣れるのがまず難しく、配管の口径をほとんど暗記していないとまとも作業できない、遅すぎてすぐ罵声が飛んでくる。(出来ない人もたくさんいたが)そして、何かミスをするとヘルメットの上からハンマーやレンチで殴られた。首が衝撃でもげると何度も思ったが東大阪のオッサン達にはそんな常識は通用しない。半年ほどは配管作業ばかりやっていたが、途中から少しだけ営業?らしいことをすることになった。設備投資の補助金の代行申請の業務を先輩から振られ行うことになった。これはうまくいかなかったのだが、これでめげずに申請して仕事を取ればしっかり営業出来るようになると思い、設備投資補助金について日々調べていた。その年の8月ごろに非常に簡単に申請できる省エネルギー化補助金があることを知ったので先輩から頂いた案件(12件)を一人で全件申請した。客先に行き、メールを代理で作成して送信。書類も自分で作成して持ちこみ添付して資料を送付、導入するボイラーとその配管については流石に全部は出来ないので外注の方に来てもらい簡易で配管ルートと必要な材料を教えてもらいメモから見積書を作成。そして、施工時には施工もすべて立会い業務も行う。と、すべてをやっているととてもじゃないが普通には家に帰れず。
いつの間にか、クタクタになっており気付けば単独でバイク事故を起こしていた。左足が折れて近くの病院に運び込まれた。その間、しっかり意識はあり折れてブラブラした足を「ごめんな~添え木とか治療はできんねん、うめいてるから大丈夫やな~頑張ってな~」という救急隊員の声を聴きながら運ばれた。折れた足をブラブラされる痛みは何よりも痛かった。ということでここから入院生活が始まる。
また、次回続きを書きます。
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