100日哲学チャレンジ☆9日目

 こんばんは。カマイタチ兄です。

 今日は、「闘争」について考えてみようと思います。

 「人が行為するときに、なぜそれをするのか。それは、もっとも広い意味での、『利益』を得るから。」

 この『利益』とは、「自分が持っているハビトゥスや知覚様式、あるいは自分の『ポジション』の価値」を指しています。

 ブルデューは、この『利益』を巡り、人々が『象徴闘争』を繰り広げていると言います。

 イメージ的には、こうした『利益』を巡る闘争は、人よりも自分が「優れていたい」「評価されたい」という、マズローの欲求階層説で言うなら「承認欲求」から生まれるものでしょうか。

 僕たちは、芸術、学問、スポーツ、政治、文学様々な分野で、自分の価値観が優れていることを証明するために、なんと趣味に至るまで、僕らは「闘争」を人に挑んでいるようです。これをブルデューは、『象徴闘争』と呼びました。

 そんなもんかなあと思い、自分を振り返ってみますと。

 小学生の頃。学校の先生に、ユーミン、ゴダイゴとか、平井堅、さだまさしとか自分の年代よりも前に流行った歌や、大人が聞きそうな曲を毎日話題に出そうとしていたことを思い出しました。

 「へえ、よく知ってるね」「古い歌だな~年代全然違うじゃん」と、他の子たちと『違う』と思われたり言われたりするのか嬉しくて、家で色々調べていました。正直、歌自体に興味があったわけではなく、ただただ注目を集めたいが為の行動でした。

 自分のことが、周りで話している人の中で話題になるのは(勿論悪口とかではなくて、趣味や好きなことの話で)、大人になっても嬉しいものです。同級生が興味をもっていた、ジャニーズやアイドルとは違った趣味を持っている、というのが、僕は他の人との差異として見て欲しかったから、先生に主張していたのでしょう。これが、『象徴闘争』ってやつのようです。

 アドラー心理学の中においても、「権力争い」や「復讐」といった概念が出てきましたが、「ディスタンクシオン」とはだいぶ切り口が違います。「自由」や、過去、現在、未来といった人生の捉え方、根拠もだいぶ違っているので、比較してみると面白そうです。またゆっくりと書いていこうと思います。

 それでは、また明日☆

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