第9話 「白い月の蒼い光」

 満開の桜が、白の絵の具を所々に混ぜた蒼い空に、よく映える季節になった。眠たい目をゆっくり閉じても、春の暖かい陽射しが、彼の瞼の奥に差し込んでくる。湯気の上がる蜂蜜入りのたんぽぽコーヒーを飲んでも、頭の奥の鈍く重い眠気をとることはできなかった。
 ここは、ツクール島中心部に位置する『アレックス・タワー』の最上階テラス。その中央に、お気に入りの紅い革張りの椅子を置き、海風に吹かれているのがアレックスである。
 彼の正面には、遥かな太平洋と水平線が広がっている。
 彼の背後には、山々に囲まれた小さな平地の中に、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた人々の暮らしが見下ろせる。其処では、アリが懸命に角砂糖を運び、積み重ね、どちらが高いのかを競い合っている。アレックスは自身のことを、そういった競争とは別次元に住む、生まれながらにして特別な人間だと思っていた。彼にとって、現在の地位もまた、後ろ盾たちが懸命に角砂糖を積み上げた結果であることを理解することは到底できないだろう。全てが彼自身の実力の所産だと固く信じているからだ。富や権力を持つほどに、人は生来の我が儘さを遺憾なく発揮するようになるが、彼にとっては、現在の権力、名声、財力はもともと自分のものではないだけに、どうしても人に見せつけ、彼の立場を危うくしようとする者を威嚇する材料として常にそれらを用いて、傍若無人に振る舞うことが当然であるかの如き態度であった。一方で、確かに彼の化学・技術的開発分野における実力は本物であるだけに、彼を当代の出世頭として称えるメディアもあった。生身の彼にひとたび会えば、平清盛も沸騰した風呂桶に乗せられたまま、親族ともども逃げ出す暴君ぶりである。

 さて、この天空に鎮座する我らがネロ帝の前に、タワーの外壁をスケートリンクよろしく滑って昇って来た白い月があった。
 「さてさて、ようやくお出ましか。」
 カップの底に溜まった蜂蜜を、残り少ないコーヒーにかき混ぜて飲み干すと、劇薬の傷跡が残る両手をこすりあわせた。
 「あのお方から君のことは聞いてる。あれくらいで、ユーがやられるとは思ってナッシング。」
 ユキコは空中で回転しつつ、弧を描きながらひらりと着地すると、須鯉会長をデッキチェアに寝かせた。「や、やめてくれ・・・お願いだ。もう下ろしてくれ・・・」とうわ言を繰り返しながら、泡を吹いてぐったりしている。
 「ほう、スーパープレジデント須鯉を連れてきたのか。しかし、私たちのラブリーなカニちゃんよろしく、いい泡の吹きっぷりだねえ。」
 「そんなコメントをしている余裕が、貴方にあるのかしら?数分後には、貴方も同じ運命よ。」
 「それは楽しみだね。君と空を舞うのは、実にエキサイティングなブーストだろうな…だが…」
 椅子の肘掛の先をカパッと外すと、アレックスは紅い釦を押した。
 「悪いが私はベリービジーだ。ユーのお相手は、彼に頼んである。」
 床が四角く大きくせり出し、扉が開くと、紅い煙の中から、おぞましい生き物が出てきた。
 「レポートでは、ユーは頭脳派エージェントだと聞いていた・・・バットしかし!違う一面を見られてベリーエキサイテッドだよ。はやくユーを部品にバラして、リサーチしたいものだ・・・」そう言い放つと、アレックスはさも別れを惜しむような表情で立ち上がり、紅い肘掛椅子の向こう側にまわり、姿を消した。
 「待て!!」ユキコが走り出して直ぐに、紅い煙に包まれたそいつが視界から消えたのを感じた。次の瞬間。
 金属の強くぶつかり合う音が、大空にこだまするほど響き渡った。
 「アレックちゃんハ・・・追ワセナイ・・・ンゾゾゾ」
 ASHITAKA-Ⅱ。
 アレックスの作品の中で最も優れたスピードと残忍性を持つ怪人だ。十本の脚は細く美しく尖り、対象を薄切りにし、串刺すのに適している。片言なのは、アレックスの独り言を覚えてしまった為だ。骨が大好きで、戦利品としていつも首から頭蓋骨を下げ、脛骨の爪楊枝を口に加えている(因みに、呪術的な意味は特にない)。ZUWA―Ⅰと幼馴染で、仕事終わりにはツクール島の名産「たんぽぽのお酒」を飲みながら、若き日の思い出を語るのが楽しみ(昔は蟹の中でもかなりのプレイボーイだったらしい)。
 「オマエ、良イホネ持ッテルナ。コレハコウゴ期待ダナ」
ミシミシと正にしのぎを削っていた二人だが、一度間合いを取った。
 「気色悪いコレクターさんね。ぶち抜き甲斐がありそう。」
 ユキコは強く床を蹴って飛び出し、空中で銃を抜いた。
 ASHITAKA-Ⅱの脚の一本一本が、真ん中の筋から二つに割れた。渦を巻くような刃が、空中のユキコに向かって伸び、絡みつきそうになった瞬間。静かにユキコが微笑する。
 「SET ME FREE.THE MOVIES!」
 ユキコのものとは思えないほど低い声が響くと、銃が発する蒼い光の中。二人の姿が歪み、消えていった。

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