みんな井戸の中
最近ぼんやりと思うことを。
「井の中の蛙、大海を知らず」ってことわざがある。
自覚する事はとても大事。
この自覚のあるなしで、人は変わる…と私は思う。少なくとも外側から見たものでなく本人の捉える人生は変わるはず。
自分が井の中の蛙だと気づいた人は、その井戸を出るべく、蛙を卒業するべく、行動する。
何をするのか?
広義で、勉強だと思う。
でも、そうして出た井戸から広がった海でバチャバチャと遊んでるうちに、気づいてしまう。
ここも、まだ、元の井戸よりひとまわり外側の井戸の中なんだって。
そしてまた、勉強する。体験する。他者に会う。移動する。読む。喋る。考える。
そのうちに、井戸を出る。たしかに、その足で跳躍して飛び出る。
そしてまた気づく。何度飛び出ても井戸の中だと。
私はそのたびに恐ろしくなってしまう。井戸から出るたびに、新鮮な世界に毎回驚くのに。今まで出会わなかった世界が広がっているのに。
知識や世界観は複雑さを増し、分野が横断的につながり新たな知を呼び、行き交う人の凄さが身に染みて、たじろいでしまう程なのに。
どこまで行っても井の中だなんて。
大海には、プロはもとより、明らかに生まれ持ったセンスのある人、長年積み重ねたもののある人、搭載してる脳の違う人、もはや在野研究者と呼べそうな人、素人のはずなのにやたらすごい人……たくさんの人がいて表現不可能だ。
そこに呼ばれてないのにジャジャジャジャーンと飛び出して構ってもらう。先輩方に、目が回るほど猫じゃらしを振ってもらい食らいついていくのは楽しくてドーパミンがドバッと出てくる。(ネタが古いのはご愛嬌で)
そうこうしているうちに、気がついた。どうやら、このすごい先輩たちも、スケールは違っても同じく井戸の中でもがいているようなんだ。
もちろん、先輩たちは、何回も何回も飛び出して繰り返して、私よりはるかに外堀(?)にいるよ?
だけど、もっと分かりたい、もっとやれる事があるはずだ、どれだけ井から出てもまだまだ自分は足りないな…って気持ちは、私や私の周りとも共通するものがあるみたい。
そう考えると、井戸は、今の自分に理解できる範疇を飛び出ない為の安心設計なのかもしれない。まるで、海水浴場でトラブルが出ないように設置されている遊泳区域のフラッグのように。
世界には、ライフセーバーや監視員はいないもんな。
海でたとえても、
・溺れて海の水を飲む
(急に勉強しすぎて頭が爆発)
・遠くに流される
(変な情報に飛びついてわけわからんゾーンにきてしまう)
・クラゲにさされる
(どんな本か分からず読んでダメージをうけるなど、見慣れない人には情報の見極めができない)
・気づいたら夜で誰もいない
(……わたしだけかも…(´;Д;`) )
同じ言葉を喋っていても、同じ動きをしていても、ひとりひとりがどう思っているか、何を感じているかは案外違うものだと思う。
同じ本でも、1人として同じ読み方をする人がいないのと一緒だ。
どんな井戸に住んでいるかとは、その人の個性とイコールなのだと思った。
先にライフセーバーはいないと書いたけど、実は、いる。視野の広い人や、大海で溺れたことのある人など、善意でさりげなくライフセーバーをしてくれる人もいる。
そういう先輩たちの姿も、経験を積むたび分かってくる。
自分も、そちらに回ることも出てくる。
そうした繋がりで、知識や心を贈られ繋げて生かされる。
最近は、そんな風に思ってる。
以上、私の井戸の中から中継しました。
そちらはいかがですか?
あなたはどんな井戸に住んでいますか?
いつか交信しましょう。
どんな"コトバ"、どんな手段が好きですか?
いつか、教えてください。
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