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感想:アイヌにまつわる演劇と電話演劇を見た(聴いた)。

Kamui Project 2020『Suy unukar an ro』

12月26日(土)19時/札幌・コンカリーニョ

ウポポイができて以来、意識しなくてもよく見かけるようになった、アイヌにまつわるエンターテイメント。コンカリーニョの舞台の一部にチセ(アイヌの住居)をつくり、ピアノやカホンなどの楽器隊が音楽で彩っていた。

美術、音楽、光などの演出効果が美しく、それだけでとても楽しい。中でもキムンカムイ(ヒグマ)がすばらしく、たぶん二人がかりで動かしているであろうヒグマは、本当に生きてるような説得力を持っていた。ヒグマが立ち上がったときは「終わった、死ぬ」って思うほど。当然だけど作り物のヒグマだから表情はないはずなんだけど、音楽と、二人がかりで表現する細やかな動きにヒグマの心を想像させられた。ヒグマ、また観たい。

お話はアイヌの血を引く高校生が祖母の死をきっかけに、祖母に対する「わたしの祖母」という実感と、周りから見たときの「アイヌのフチ(年長者)」というイメージのギャップを受け入れていく感じ。

個人的な感覚だけど、「アイヌのフチ」→「わたしの祖母」という流れで、民族としての記号的な人の捉え方から、たしかな生を持つひとりの人間へと、そのイメージを変えていく物語のほうが、よくも悪くも“ありがち”かなと思うんだけど、この作品の主人公は「わたしの祖母」→「わたしの祖母で、アイヌのフチ」というように考えを変える。

ここの流れに戸惑ってしまって「この作品が訴えていることはなんだっけ」「アイヌはアイヌで、人は人?」「アイヌ=人だよね?」みたいに、ぐるぐる考えているうちに話は終わった。でも決して悪い劇後感ではなくて、ラストに歌われる曲はとてもキレイだったし、アイヌのことについてその後も考えて調べたりしてる。

プロジェクトのホームページを見ると、「札幌の俳優たちと、アイヌ文化の交流点を目指して」とあるけど、見てる僕としてはよく分からない。プロジェクトの目的というか、目指す変化がどのようなものなのか気になる。次回公演も予定しているみたいなので、ぜひ見に行きたいと思います。とりあえずヒグマと、音楽は楽しみたい。

ところで、これはコチラ側の問題なのだけど、民族や文化などの事実に基づく作品は、見ているうちに他に興味が向いてしまう。好奇心がすごく刺激される。家で調べながら観たい。でもそしたら、ヒグマや音楽のすばらしさは味わえない。困ったなぁ。

電話短編演劇Vol.0『恋の亡霊』『ハヌヌルル』

12月27日(日)17時半:電話

クラアク芸術堂の演出家・小佐部さんがしかける「電話演劇」の実験公演。まず面白かったのは、俳優と自分のあいだに関係性が生まれること。単に「電話で俳優がセリフを言う」のではなく、電話をかけてくる理由がそこにはあって、紛れもなく物語の登場人物として自分がいる。特に2本目の『ハヌヌルル』では、その関係性が活きていた気がする。

予約時点でこちらの電話番号を伝え、観劇(聴劇?)時には電話にでられる環境にいるよう指示がある。開演時間になるとスタッフの方から電話がきて、作品と観劇について説明されて、自分と登場人物の関係性について知る(他人からの間違い電話とか、友人からの電話とかその程度)。相手はあなたに話しかけているので、適当に相槌とかしてあげてくださいとも伝えられた。

これでスタッフとの電話は切れて、ふたたび待機。まもなくして、別の電話がかかってくる。出ると女性の声で自分じゃない人の名前を呼ばれるので、それに「違いますよ」と答えたところで演劇がはじまったことに気付く。『恋の亡霊』。

この「電話を取ってはじまる」という体験が、とても面白かったポイントその2。電話がかかってくる前の待っている時間、かかってきてもこちらが取らなければ物語は始まらない。そして電話に出た瞬間に、いやでも物語に引き釣りこまれていった。

電話に出る→話を聞く→受け答えという能動アクションと、自分と登場人物との間に1対1で作り出される関係性が、劇場ではありえない臨場感をぶちかましてきた。

その臨場感がより働いたのが2作目の『ハヌヌルル』。友だちから電話がかかってきて、ペットを飼ったという話を延々聞かされるのだが、どうやらきな臭い。雑に言ってしまうと「サイコパスホラー」みたいなストーリーが展開されるのだが、これを車内でひとりで聞いていた僕は、みごとに怖くて窓の外を見れなかった。

昔だれかが「演劇とホラーは相性が悪い」と言っていて、僕なりにそれを考えてみたことがある。それは仕掛けるサイドと見るサイドで、情報量が等しいことが一つの原因だと思った。どんなに劇場を暗くして無音の世界を作り出しても、仕掛ける側の俳優も同じ状況下にいる。自分より圧倒的優位にいて、ただ自分を脅かすだけの存在が想像できないのだ。だって俳優だって暗い中で手探りで立ち位置を探しているんだもの。あるいは周りに、同じ状況下の人がいるんだもの。

ところが電話演劇は違った。与えられる情報は電話越しの情報が抑制されたな声だけ。電話の向こうでなにが繰り広げられているのか、この話し相手はどこにいるのか、今なにを見ているのか。そういった情報はいっさいない。結果として想像が働く。「もしかして、こいつ、今、俺の近くにいるんじゃないか……?」と。

そもそも電話演劇は舞台演劇じゃないんだから、比べるのも意味がないことではあるけど、演劇の作り手が新しいツールで作品を仕掛けてきたことが楽しかった。逆に舞台上でも、観客と1対1の関係性を結んで、能動的なアクションを実行させることができれば、もっと臨場感のある作品になるのかも。こういうのを「イマーシブ」と言うのかもしれない。
電話演劇は「イマーシブ」な体験だった。


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