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世界のクロサワのデビュー作!映画会社の「お詫び」で始まる映画『姿三四郎』あらすじと気になったポイント

こんにちは。久しぶりの投稿になってしまいました。
 今回は『姿三四郎』です。長編小説の映画化、なんと既に5回映画化されているそうですが、今回観たのは1943年発表の黒澤明の作品です。
 実は恥ずかしながら、黒澤作品は今まで『七人の侍』『用心棒』など、有名どころしか観たことがなかったのです。彼のデビュー作である本作は、いつか観たいと思いつつ先送りにしてしまっていた作品でした。

●「お詫び」で始まる映画

 まず冒頭ですが、東宝によるお詫びの文章の掲載から始まります。この作品は公開された際(1943年)に当局による検閲が入り、本編の数シーンがカットされてしまったのです。戦後、これを復元しようと試みたものの、戦火によりカットされたシーンのフィルムは散逸してしまっていました。ということでやむをえずカットされたままの状態でこれを放映します、ということわりでした。非常に時代を映した背後関係ですね。
 この作品には、ちょいちょい説明文で中間を省略しているパートがあります。これらがカットされた部分だと想像できます。

●姿三四郎の弟子入りと「書生っぽ」

 物語の舞台は明治15年の東京で、腕は立つが喧嘩っ早く血気盛んな姿三四郎が、柔術の師匠・門馬に弟子入りするシーンから始まります。彼は柔術を「柔道」と改称して広めようとしている講道館の矢野を闇討ちしてやろうとしていました。柔道の成立は実際に明治15年とされているらしいですね。で、その闇討ちなんですが、矢野はめっぽう強くて門馬たちは返り討ちにあいます。そこで三四郎はあっさり、この矢野に鞍替えするわけですね。
 主人公、三四郎は師匠のもとで柔術の才能を開花させ、どんどん強くなっていきますが、喧嘩っ早い性格は直らず、町で揉め事を起こしてしまいます。このシーンですが、男衆が怒って口にするセリフに「たたんじめえ!そんな書生っぽ」というものがありました。書生、住み込みで勉強をする学生、のことですね。江戸川乱歩の少年探偵団シリーズで覚えたのが懐かしいです。・・・で、問題はこの「っぽ」という言葉です。文脈から分かる通り、これは相手を侮ってつける接尾辞ですが、僕は「マッポ」という言葉以外で使われているのを見聞きしたのは初めてだったかもしれません。「マッポ」はだんだん死語に近づいてきているように思えますが、警察を指す俗語ですね。これは明治初期においては警察機構を旧薩摩藩がほぼ独占していたため、警察を指して「薩摩っぽ」といったところに起源があるそうです。『るろうに剣心』でも警察官が「チェーストォ!」と叫んで斬りかかってくる描写がありました。あのおじさんも薩摩人だったわけですね。

●三四郎、覚醒する。そして「投げ殺す」

 喧嘩騒動について師匠に怒られた三四郎は、自分の根性を見せつけようと縁側から池に飛び込み、そこの棒杭に掴まって動かなくなります。夜が明けるころ、蓮華の花を見て彼は何かを悟り、「先生!」と叫んで池を上がります。夜明けなのに、その声を聞いて師匠や和尚、弟子までがゾロゾロ出てきます。三四郎は師匠に跪いて詫びます。後に和尚が「三四郎という人間はここで生まれたのだ」とまで言う重要なシーンです。
 今、さらっと「和尚」と言いましたが、そうこの道場には和尚がいるのです。最後まで物語の中心にいる重要人物です。史実として、講道館柔道というものはお寺の敷地を借りてスタートしたようですね。
 後日、謹慎中の身の三四郎は、道着を洗いながら雲を見上げてぼんやりしていました。この雲の形がなんか、いいんです。最後の決闘のシーンでも、ここぞというときに三四郎が思い出す雲です。そこへ、いわくありげな男が訪ねてきます。良移心当流の達人、檜垣でした。最後の決闘の相手になる男です。彼はほとんど道場破りのような勢いで訪ねてきて、三四郎の兄弟子をあっという間にのしてしまいますが、三四郎は謹慎中のためその相手をすることはできませんでした。
 謹慎が解けた三四郎は、彼が一度は師事しかけた因縁の相手・門馬との他流試合に臨みます。そこで彼は相手を投げ飛ばし、壁に激突した門馬は死んでしまいます。なんていうか、殺す気だったよね?という感じですね。あれ?三四郎くん、池で何か悟ったんじゃなかったっけ???笑
 ところで本作は柔道の映画なので人を投げる描写がたくさんあるのですが、いつもこう投げっぱなしなんですよね笑。現代のオリンピックなどでのイメージ、相手を掴んだ手は最後まで離さない、という投げ方はひょっとしたら比較的最近ルール化されたものなのかな、なんて思いました。でも柔道って、組み伏せた相手に短刀でとどめを指すような武術だと聞いたような・・・。ちょっと調べただけではこの辺は分かりませんでした。ひょっとしたらこれら「投げっぱなし」シーンは、単に映画制作サイドの誤解、あるいは演出なのかもしれません。

●村井先生との勝負

 門馬を殺してしまったことで三四郎は落ち込みます。師匠の特訓やらなんやらで立ち直っていく過程は、例のカットを食らってしまっています。このシーンカットは、本作の三四郎の内面描写を大きく損なったと思います。
 立ち直った三四郎は、小夜(さよ)に出会います。小夜は柔術家の大家・村井の娘ですが、その父親が話題の三四郎と他流試合をすることになり、毎日神社で祈っているのでした。三四郎はそうとは知らずその姿を目撃し、その姿に心を打たれます。

姿、あの美しさは一体どこから出てくるか分かるか。祈るということの中に己を捨て切っている。自分の我を去って神と一念になっている。あの美しさ以上に強いものはないのだ。我々はここで遠慮しようか

一心に祈る姿に、それを邪魔することに忍びず、参拝をやめる師匠の心遣いが粋ですね。

いいものを見たな姿。いい気持ちだ

と、師匠と三四郎は帰って行きます。
 後日、下駄の鼻緒が切れて困っていた小夜を助けた縁で小夜と三四郎は接近します。しかし三四郎は小夜の父親の正体を知り、動揺してしまいます。
 試合当日まで村井との立ち合いに躊躇していた三四郎でしたが、和尚に例の池の事件を思い出されて決心を固めます。彼は村井との試合に臨み、見事勝ちを収めます。この村井を演じたのは、黒澤映画の超常連、志村喬です。試合前、三四郎の道着が裂けたのを目にして優しく微笑むあたり、強いだけでない度量の大きさを表しています。しかし三四郎にぶん投げられた村井は視界もおぼつかずかなり危なっかしくて、ひょっとして死んじゃうのかなと心配になりましたが大丈夫でした。後日三四郎は村井を見舞い、二人は親しげに会話を交わします。

●檜垣との決闘、エンディング

 そして最終決戦になります。村井の一番弟子、檜垣です。彼は小夜に想いを寄せていたこともあって、三四郎が気に入らないんです。試合ではなく、野での果たし合いという形で、檜垣から三四郎に挑戦状が届きます。三四郎は先に決戦場で待っているんですが、風のススキ野に立ちすくむ三四郎の絵はとても美しい。すごく印象的でした。
 二人の死闘が始まります。檜垣は三四郎の首元を絞め、あわやというところまで行くのですが、土壇場で三四郎はあの池で見た蓮の花と浮かんでいた雲を思い出し、無心になって相手を倒します。
 戦いに勝った三四郎は、旅に出ることにしました。それを横浜まで送る小夜の目には涙が浮かびます。それを「目に何か・・・。」なんて男の子みたいな誤魔化し方をする小夜さん。可愛い。

●まとめ

 ヴェネツィア国際映画賞で銀獅子賞をとった『七人の侍』は1954年の作品ですから、その10年以上前の作品になるわけです。しかしその時代の差をほとんど感じさせない面白さでした。ワイプ(左or右にツイーッと画面がスライドしていく場面転換)が既に使われていたり、古臭さを感じなかったです。 
 それとカットされてしまった関係もあると思いますが、展開が非常に早い。97分ですから、尺としても短い方です。その分、三四郎の人物の掘り下げという点では少々物足りなくなってしまっていたのは残念です。

 黒澤映画はNetflixなどでも意外と取り上げられていないんですよね。TSUTAYAで借りてきて、もう何作か観てみようと思います。感想や、「黒澤映画ならこれが推し!!」といった作品などありましたら、コメントで教えてください。
 それでは!

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