初見、初代ウルトラマン30話「まぼろしの雪山」を食らってろくろを回す奴

初代マン30話、想像もしなかった後味の悪さ困ってしまった初見。
科特隊dis台詞や村人達の迫害描写からして、ジャミラ回のように敢えて露悪的"に描こうとしたのは察せる。しかし、雪ん子を思いやってたイデまでもが「幻」扱いしてしまったのはさすがに"違う"と思ってしまった。救いが無さ過ぎて…

ヒドラ回みたいにマンがウーを見逃してあげる話なのかと思ったら、全然違ったからびっくりした。ヒーローとしてのウルトラマンって、怪獣事件を『収める』ことはするが、人間社会のあれこれにまでは踏み込まないって事なのか…(と考えると、シンウルのゾーフィが「裁定者」を名乗っていたことに納得感が増してもくるが)

差別と迫害がテーマ、それはわかる。
科特隊も完全な善の存在ではない、それはそう。
そもそも第23話「故郷は地球」のジャミラ以前から『人間の都合で始末する業』そのものに関しては第12話「ミイラの叫び」にも描写されていたし、
第27話「怪獣殿下 後篇」ゴモラに対しても一応「可哀想な事をした」という認識は存在していた。 しかしそれにしたって救いが無さ過ぎる…

やっぱりイデが「まぼろし」扱いしているのが一番嫌だなぁ。たとえハヤタがイデをこれ以上苦悩させない為に優しい嘘をついたとしても、イデだけは都合よく幻扱いするのはさすがにそれは違うのでは… 雪ん子の気持ちに寄り添おうとしてたのだから… (って複雑な気持ちになるのが『狙い』の脚本なのだとしたら、テーマがテーマだから成功しているとも言えて、30話そのものに対して批判的な気持ちは私の中で軽減される)

ただ、科特隊はあくまで特殊な怪事件に対応する組織であって、村の問題に干渉することは立場的にも出来ない。第7話「バラージの青い石」も、人口激減で滅びゆく町の運命はそのまま、ただそのまま帰るしかなかった。本当、せめてラストのイデの台詞だけなんとかならなかったのかな…と思ってしまうのは、自分がイデが好きだからイデだけは『いいやつ』であって欲しいと思ってしまう個人的願望に過ぎないのか…。

ヒドラもウーも どちらも『子供の守護霊』的な存在で、子供の為に姿を現していたと思うが、ヒドラは暴れたことで結果的に(なぜか)加害者の運転手が自首して救いもあった。しかし「まぼろしの雪山」は同じ金城哲夫脚本・第20話「恐怖のルート87」のようにはいかない、というのがポイントなのかもしれない。

仮にイデの言うように雪ん子が本当に「幻」だったとしても、村人達の迫害に及ぶ感情は本物だろう。
そして「あの子の気持ちがわかるような気がする」と寄り添おうとしていた人間(イデ)も結局は他人事に過ぎなくて有耶無耶にして、何もかも無かったことのように扱ってしまう。『忘れる』って、とんでもなく残酷で、…
こんなしんどい回を1話と30話だけセットで放送するNHKまじ?
(NHK総合にて、6月19日の午前1時54分からウルトラマン第1話「ウルトラ作戦第一号」と第30話「まぼろしの雪山」を放送すると発表)

第7話「バラージの青い石」で、「ノアは、宇宙人だったのか…」と神の存在を否定したと思いきや「平和の為の大切な神なのかもしれん」という結論になったのが正直ちょっと違和感あったけど(おそらく金城脚本的には、ウルトラマンは神聖な存在で、この世に神がいるとしたらそれは宇宙に存在する超常の存在だろうって事なんだと解釈してはいた)
佐々木脚本・実相寺監督回が かましてきたことで、ウルトラマンは平和の神ではないって方向性にメインライター自ら持っていった回にも思えてきた。なんて残酷なセルフ逆張り…。

少なくとも科特隊に関してはジャミラ回を意識してる感がある。
「ウーを退治するのは本部命令」であっても、気が重くて葛藤していたイデはジャミラ回からの"それ"。ただ私の中でイデは『子供に優しい』イメージがあったから(第3話「科特隊出撃せよ」にて、ホシノ少年に「君が呼んだから来てくれたんだよね」と優しい言葉をかけてあげていた為)、イデが雪ん子のことを「幻」扱いして忘れようとしてしまうのはやはりつらい。ラストシーン、曲と表情がやたら明るいのも残酷。

ラストシーン納得いかねえよ!!も含めて狙い通りだとしたらその後味の悪さに浸るしかない(浸ってる)
アラシの「怪獣は所詮、人間社会には入れてもらえない、悲しい存在なんだ」もつらいけど否定できないしな… あんな巨大生物が姿を現して人間の生活圏に危害が加わらないなんて保証は無い訳で…

そもそもイデ達は、雪ん子が村の連中から具体的にどんな被害を受けていたのか見てないから、実感が無かくて余計に「幻」だと思ってしまうのもあるかもしれないのか。冤罪を食らって銃向けられて殺されそうになった事も知らない。ぼんやりとした事しか知らない… 誰も寄り添わない救われない…

村民から雪ん子の話を聞いたイデ「どうやって生活してるんだろうなァ…」
と言っていたのもちょっと引っかかる。
雪ん子が村に来たのが「15年前」、
育ての親になってくれていた爺さんは「2年前」に死亡。
つまり雪ん子は13歳からひとりぼっちで自力で生きていたことになる。
ウーに見守られながら。…あんな極寒に見える地で…?
確かにイデの言う通り、「どうやって生活してるんだろうなァ…」だ…

悲しいものをそのまま悲しく演出して見せるより、
つらく悲しいものを 明るく見せる方がより残酷に感じる。

ジャミラ回の方がわかりやすく悲劇に『酔える』と言ってもいいかもしれない。イデが「犠牲者はいつもこうだ…」と言ってくれるから、見てる方もそれに乗っかれる。でも「まぼろしの雪山」はそうはいかない。

ヒドラ回で 既に事故死していた子供の幽霊が フジ隊員の前に姿を現して、警告を受け、ヒドラは死んだ子供達の為に暴れていた。その経験があったから、ヒドラ回の子供と同じく雪ん子のことも『過去に起きたこと』だとイデは思ってしまったんだろうな…という嫌な納得感。

思えばヒドラが『死んだ子供の為に暴れていた』のも『イデ達の憶測』でしかないという言い方もできるが…
少なくともヒドラ回においてはそれが真実だった筈であり、
だからこそ育ての親すら失ってた子供は「どうやって生活してるんだろうなァ」→「やっぱり幻だったんじゃないか」になってしまう…なぁ……

考えれば考える程、イデが雪ん子を幻扱いしてしまったことが『自然』に思えてしまう惨さ(自然な流れであると自分自身を納得させようと必死とも言える) 。
ともかく、死んだ子供の為に暴れていたヒドラを見逃すウルトラマンの話を書いた脚本家自ら、その話を自ら台無しにしかねない話を作るのあまりにも容赦がなさ過ぎる。

佐々木・実相寺組が逆張りをかましてこなかったら「雪山」回も無かったかもしれないし、ジャミラ回が無かったら『組織の中に生きる個人として葛藤して悩むイデ』も存在しなかったかもしれない。イデと言えば苦悩ってノリが生まれたからこそ「小さな英雄」で自身の存在意義に悩めたりする。後先考えずにやってる集団製作だけど、結果的に過去にやった話がうまく積み重なって意味を成し、効果を発揮している感じがたまらなく、良い…。

ハヤタが雪ん子のことを「山に帰った」とイデに言ってしまうのは、視聴者視点からすれば欺瞞に感じざるを得ないが、脚本家の金城哲夫氏が手掛ける小説版では、「小さな英雄」回で苦悩するイデに対してハヤタが、

「ボクは……」 といいかけて、ハヤタはおもいかえした。ここで打ち明けてしまったら、イデはますます自信をなくしてしまうだろう。

金城哲夫 著『小説ウルトラマン』p.145

こういう気遣いを見せているから、私は『まぼろしの雪山』ラストで雪ん子を「山に帰ったよ」と言ってしまったのは良くも悪くも納得感があるので、個人レベル・キャラ描写としては間違ってないと思ってる。(視聴者の視点では「幻扱いして終わらせるなんて」と思っても)

30話ラストシーンのイデの「幻だったんじゃないか」、考えれば考える程
『良い悪いは別として、イデの立場なら確かにそう言うのは自然』
と結論できてしまうのがたまらない…納得できてしまう。好みは別として。
あんなことを言うなんてイヤだな、って、残るのは「好み」の話になっちゃうのかもしれないが。 私の中で初代マン30話は好きとか嫌いとかも言えない。それでもイデに関して確かな「納得」はある。あいつならああ言うよな…と思えてしまった、誰も救われない回。とにかく私の中で強い存在感を放っている。

ジャミラ回の『イデだけ取り残されている構図』もなかなかの露悪演出だったけど、ウー回はそのイデさえも……っていうのがあまりにも容赦なさ過ぎて圧倒されてしまう。ジャミラ回のように イデに葛藤をさせて、雪ん子の為に葛藤してみせたイデも、所詮は部外者の他人事に過ぎない……

「故郷は地球」ラストシーンのイデ隊員
イデ「僕にはウーが、15年前に死んだ雪ん子の母親の身代わりのような気がするんだ…。ひょっとすると、母親の魂が今でも雪の側に…!」
アラシ「ウーを退治するのは本部命令なんだぞ!」
"本部命令"と反する感情を抱いて葛藤するイデ、ジャミラ回から生まれた持ち味。

・ヒドラ回の経験(死んだ少年の幽霊)
・突如消えるウー
・村民から話を聞いた、迫害現場は見てないイデ
「(雪ん子は)どうやって生活してるんだろうなァ…」

イデ「雪んこって女の子は、実際にはいなかったんじゃないかって。俺達が会っていた女の子は、雪山の幻だったんじゃないかってねぇ…」

私「お前なら確かに…そう言うだろうな…」

めちゃくちゃつらいけどさあ!! 最終的にああなるのも "納得" できしまうから尚更つれえんだよなあ! おれイデのこと嫌いになりたくねえよ!!!!!!!(本音)

「そうなるのはおかしいだろ不自然だろ!!!!!!!!!」って言えるならともかく、言えない。自分なりに考えた結果『納得』できてしまう。そりゃイデはそうなるよ…になってしまう。ヒドラ回の経験があるし、子供ひとりだけで生きていられるような環境じゃない、イデは迫害現場を見てない、筋は通る……

ヒドラ回の科特隊本部に現れたアキラ少年、実は半年前に交通事故で轢き殺されていた・ヒドラは子供の為に暴れていたのかもしれない話だった『ルート87』。そういえばフジ隊員が「心が綺麗」だから少年の姿が見えたと言ってたが…仮にそれを"真"とすればイデお前…(心優しいキャラだと思っているけど、心が綺麗かっていうとまあ確かに人並だと思う)

初代マン30話、何度考えても「確かにそうなるだろうな……不自然さが無い……」と納得できてしまうから、ただただ救われない話に成す術なく打ちのめされる。つらい。(でもそれが良い…)

雪ん子に寄り添おうとしていたイデまでも……という容赦の無さが本当につらくて仕方ないが、話のテーマがテーマだからある意味"潔い"ともいうか。
あの話でジャミラ回と同じく『イデだけは犠牲者に寄り添おうとした』まま終わってれば見る側もそこに乗っかれるが、それすら許さないのも、たまらない第30話「まぼろしの雪山」……
好きかどうかと言うと回答に窮するが、有名でなんとなく知っていた為にある程度は受け身が取れる状態にあったと言える「故郷は地球」以上に、私の中で圧倒的存在感を放つ回となった。まさかこんなにもろくろを回す(考え込んでしまう)ことになるとは思いもよらなかったし、とにかく『思い入れが強い』回になった。

【 追記 】

視聴するのを忘れていた ULTRAMAN ARCHIVES『ウルトラマン』Episode 30「まぼろしの雪山」Premium Talk 

今更ながら視聴してみたら、
金城哲夫の決定稿では「ウーは雪ん子のお袋さん」と最後に強調、
樋口祐三監督はそれを「後付け」の「イリュージョン」だとして嫌がった
ようで。だからラストの台詞を改変・アラシの台詞を追加して、雪ん子に焦点を向けようとするラストになった感じ。

決定稿段階のイデ「誰がなんといっても俺は信じるぞ。ウーは雪ん子のお袋さんだったんだ。きっと今ごろ、雪ん子はお袋さんの胸に抱かれてるぞ。飯田さんの向うで、十五年ぶりでな」

ULTRAMAN ARCHIVES『ウルトラマン』Episode 30「まぼろしの雪山」Premium Talk 』

金城脚本の決定稿版イデのセリフをTwitterで見かけた時にも、
「これもしかしたら『脚本家と監督とで"考え"に相違がある』かもしれないな…」と過ぎってはいたんだよなぁ…

決定稿版イデのセリフが、金城氏なりの優しさを感じるセリフに思えて。
やっぱり案の定"相違"があった訳だ。しかし後出しジャンケンになっちゃうからツイートしときゃよかったな…。

金城哲夫氏のシナリオ段階だと、もしかするとイデ自身もう雪ん子は死亡したことを察してるんじゃないかって感じがしなくもない。
「きっと今ごろ、雪ん子はお袋さんの胸に抱かれてるぞ。飯田さんの向うで、十五年ぶりでな」なんて、既に死亡してしまっているから消えたウー≒亡くなっているあの世の母親に抱かれて安らかに……みたいにも感じる。
『せめてそうであってくれ』という『祈り』。じゃあ決定稿の方がいいな…

それでも後味悪くて救いがないのは事実だけど(雪ん子の為に葛藤してみせたイデも、ウルトラマンも、所詮は部外者に過ぎず、力にはなれない。)、ヒドラ回に合わせたウー回の筈であろう金城脚本で、私が結論づけた皮肉に塗れた話だとするのはやっぱりちょっと変だよなぁ、脚本の意図とは違うかも…って思ったのも間違いじゃなかった。監督がウー=母親と明確にしてしまうのを嫌がったことで、良くも悪くもラストシーンが決定稿とでは印象が異なるものになったと。

樋口祐三監督としては、雪ん子は「僕の気持ちの中では死んでいないです。殺してはいないです」。ラストの兎も、現場判断で追加。
でもそれは「絵が寂しいから」という『画作り』で追加されたものだったという。兎と雪ん子について、生と死の対比か~みたいなことツイートしたと思うけど別にそういう意図は無い、やっぱそっかぁ。
そんな意図は作り手側には無いだろうなと頭には思ってても、
『生きて動いている兎』と『倒れて動かなくなった雪ん子』を意味深に捉えて解釈してしまう。まぁ、映像本編に答えは出されてないから、あくまで「そう捉えられることもできるよね(真実・事実とは言ってないし作り手の意図とは別)」の話だから…


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