ウルトラセブン最終回のダン、"死亡"もありえたんだろうな(初見)・脚本にあったダンの涙カットしてほしくなかった話

『シン』見たのを機に、初代 → セブン履修しました。
(視聴した雑ツイはすべて「min.t(ミント)」に雑にまとめてます)

( そもそものそもそもとして、このnoteはあくまでも「初見(基本的に)」視聴した人間による「初見の感想」の一環ということで…)

公式では生きてるけど、最終回のダン死亡も『ありえたな』と思った主な理由


(追記:というよりも、あくまで本編を視聴時の自分の"解釈の1つ"としての話です。そういう可能性・パターンもありえたよね位の感じ)

  • 命を2つ持ってきたゾフィーと違い、セブン上司は『奇跡を起こさない』

  • セブンが感銘を受けた薩摩次郎は、セブンという『奇跡がなければ』死亡していた

  • 上司「今度こそ本当に死んでしまうぞ!」→ それでも変身した

  • ヒーローへの依存を否定するテーマ(キリヤマとソガの台詞が象徴的)

  • 脚本上では、アンヌとの最後の会話内で変身したセブンの一人称が「僕」ではなく「私」になっていた → 金城脚本的には、人間のモロボシ・ダンはここで終わり=死亡してお別れという宣言?(この5つ目の理由は自分で言ってて自信は無い)

 結論を先に言えば、主に上記の理由から本来なら死亡していたのだろうと私は思った。むしろ物語テーマ的に考えて死亡していなければ筋が通らないのでは? と思ってしまうほど。(これも憶測だけど『シン』が初代と違って死亡したのも、そういう意識も一応あったのかもしれない)

 ウルトラ警備隊には「僕はウルトラマンがいれば十分だと思うんだ…」と苦悩をするイデ隊員のような人間はいない為、隊員達がやる気を失くす展開は最初から最後までなかった。
しかし、最終回「史上最大の侵略(前後編48話・49話)」でダンが重症に陥らなければ、警備隊の面々はイデのように 『頼りにし過ぎていた』と自覚することもできない無頓着さだった、ということにもなるだろう。それは本編を視聴していた私自身にも当てはまってしまう。

< どんな被害があっても、1週間経てば基本的にリセットされる >

そういう『お約束』が初代マンからずっと存在し、そういうものだと受け入れてきた。しかし最終回でセブンの身体的ダメージはずっと蓄積されていたのだとひっくり返してきた! 

最終回本編でダンの正体を知ったアンヌはぼろぼろと涙を流しながらダンの自己犠牲を訴え、
ラストにはソガが「ダンを殺したのは俺たち地球人だ… 奴は傷ついた身体で最後の最後まで、人類の為に闘ってくれたんだ…! ダンを殺したのは俺達なんだ……」と酷く反省と後悔の念を込めたセリフを言っている。

『ウルトラ警備隊7人目のヒーロー・ウルトラセブン(※1)』として都合のよい存在に他者を祭り上げてしまう、それは無責任なことだったと突きつけられる。
ウルトラセブンは実は仲間のモロボシ・ダンであり、ダン1人にだけとんでもない負担を掛けさせてしまっていたのだと反省する隊員達。初代マンでもやっていたテーマ『依頼心を捨てて自立する』が改めて展開されている。(初代から二作目であるうまみを活かした、初代マン37話・39話を洗練された内容になっていると感じる)。

己よりも大事な存在があること、その存在を想いやれること、その為に動くことができる精神性(自己犠牲)は、美しく尊くもある。
と同時に、
周りが無責任に『自己犠牲を「ヒーロー」として持て囃すことの危険性』もある。
結果的に「ウルトラセブン」はその両面を描いた作品
 になったのだと思う。
正負、美点と欠点の両面がしっかり描かれている。

(※1)
キリヤマ「六名の隊員が誕生したわけか、いや、ひょっとしたら七人目の隊員も誕生したかも知れん」
キリヤマ「七人目の幻のヒーローだからなウルトラセブンとでも呼ぶか……」

金城哲夫 著『小説 ウルトラマン』p.219-220 参照、ウルトラセブン最終話の脚本


・ 薩摩次郎の自己犠牲に感銘を受けるセブン(17話 上原脚本・一監督回)
→ ダンを殺したのは俺達なんだ……(49話 金城脚本・満田監督回)

初代マンが集団製作だったからこそ『セルフ逆張り』が凄い作品になったと思うし、同じくセブンも集団製作セルフ逆張り作品なんじゃないかな、って考えもある。
あくまで結果的にそうなってるというだけの話で、作り手側にそんな意識があるかは分からない。無いとしても、そういった諸々も含め金城氏がご存命であれば……このセブン最終回に限らず色々とインタビュー見聞きしてみたかったな……と思わずにはいられない。


 ダンは基本的に一人称「僕」だが、最終回の金城脚本においては、ダンがセブンとして喋る場合の一人称が「私」になっている。

セブン「一番星の出る頃、西の空を見てくれ、大きな光が宇宙に帰っていく……」
アンヌ「光が……?」
セブン「それが、私だ……」

金城哲夫 著『小説 ウルトラマン』p.313 参照、ウルトラセブン最終話の脚本

最終回のセブンは『モロボシ・ダン』であることを捨て去るしかない状況にまで陥った。だからもう「僕」は使えない、使わない。(後のシリーズのことは横に置き)そういうことかもしれない。
……ダンはダンに変わりないじゃない! だけど! 「さようなら」なんだよ!!(そうかな…)(なお、映像本編では一人称「私」は出てこない)

あと一般的に『死亡する=お星様になった』という比喩表現があるように、光となって宇宙に帰っていくと言うダンはやはり死亡の比喩に思える。


 映像本編のラストで出てくる、フルハシの「ダンが死んでたまるか…ダンは生きている。きっと生きてるんだ。遠い宇宙から、俺達の地球を見守ってくれるさ。そしてまた、元気な姿で帰ってくる!」」という台詞なんかも、
29話「ひとりぼっちの地球」に登場する一の宮くんのことを「生きていれば…」と気にするソガに対して、「死んだとは限らないでしょう」と優しく声をかけてあげていたダンと同じようなものだろう。

一の宮くんが生きているとは到底思えないし、
最終回のダンもまた生きているとは思えない。
悪く言えば 気休め。良く言えば 祈り、優しさ。

―――とにもかくにも、公式的には生きているし、本編を見たことですっかり大好きになったダン=セブンが本当に死なれては悲し過ぎるので私としてもご都合生存を望むところなのだが。

それでも『ウルトラセブン』という作品の最終回に限って言えば、
上司から「変身してはいかん!」と念押しされたにもかかわらず自己犠牲の精神を発揮してしまった『奇跡はもう起きない薩摩次郎 = ヒーローのウルトラセブンではなく"痛みを知るただ一人"であるモロボシ・ダンとして死亡した』のでは。
好きなキャラの生死以上に、物語のテーマを優先して考えるとそうなる。
(という話をTwitterで呟き、改めてnoteに考えを一応まとめておいた)

――― 追記

最終回ダン死亡説を唱えていた自分、死亡しても『命を2つ持ってきてもらうレベルの奇跡が、ダンにも起きた という脳内設定』も唱えていました。ド深夜のツイート過ぎて自分自身このnoteを書いている時点で忘れてました。

後出しの言い訳になってしまうけど、初代マンでも奇跡で復活させるような人がセブンを本気で死なせるとは考えにくいし、それまで見てくれた子ども達の為に、ダンを殺すような事はしないとは思っていました。

だから「本来なら」という言葉選び、ミスってましたね…
言い方を変えるなら「負のご都合主義」とか…「シンウルなら」とか…
(なのでタイトルも変更して追記もしました)

―――――――――――――

 あとついでに言及しておきたいこと。

最終話、脚本ではダンが「涙」を流している。


本編には無い。視聴時はBGMと演出が大勝利してて、涙がカットされているなんてことは私はすっかり忘れていた。 だがダン死亡説の話をするにあたり改めて脚本の内容を確認してみると、正体を明かす直前にあのダンが涙を流している!

今までどんな事があっても泣くことはなかったダンが、
どんなに子供っぽい所があっても涙は流さなかったあのダンが、
初めて「涙」を流して、

正体を打ち明けることが、不安で怖くて、たまらなくてたまらなくて、
その目に涙を浮かべながら「アンヌ! 僕は……僕はね……」と切り出す。

…それって、ものすごく、重要なことでは…?

金城哲夫 著『小説 ウルトラマン』p.310-311 参照、ウルトラセブン最終話の脚本


なぜ カットされてしまったのか。

もしかすると、「正体を明かす場面で主人公が泣いてたらカッコ悪いだろ」とか何かしらの考えが監督側とかにあったかもしれない しれないが

でもいいだろ…!?! ダンが初めて涙を流す、それでいいじゃないか!?
超常的な存在ではない『痛みを知るただ一人』になったダンが初めて涙を流す、超重要描写でしょう!?
ダンはカッコ悪くたっていいんだよ!!
なんで「涙」カットしちゃんだよぉ!!
逆にアンヌが脚本には無かったボロ泣き演技が追加されてるしさあ!

ちなみに細かい話だが、1話の脚本ではダンの目について「キラッと美しい瞳の持ち主」p.193 と表現されている。

美しい瞳に浮かぶ初めての涙、"要る"。


 正体がこれまで一緒に戦ってきたセブン=ダンなんだから、ウルトラ警備隊の皆なら素直に受け入れてくれるに決まってない? と思ってしまう所だが、そこはまず『宇宙人=バケモノ侵略者』が基本前提になってる世界観だからということも考えられる。
実際ダンはノンマルトに対し、ウルトラ警備隊人類側の利益の為に『異物の排除』を明確にやってしまっている。警備隊隊員でもあるが故に、自ら異物を排除することに加担してしまった経験がある以上、地球人からすれば『異物』の存在であるダン自身にもその攻撃が向けられてしまう可能性が無いとは言いきれないのではないか。

37話「盗まれたウルトラ・アイ」に登場するマゼラン星人・マヤが地球で生きることを拒絶して自死する所も見てしまっている。「僕だって、同じ宇宙人じゃないか…」とこぼすダンは、きっとおそらくたぶん自身がなぜ地球を「大好き(※2)」になり地球の為に生きているのかと自問自答する夜を過ごしたかもしれない。

地球人からすれば正体が異物の「宇宙人(人外)」であることを本当に受け入れてもらえるのか? という"不安と恐れ"。
今までずっと正体を隠し続ける=嘘をついてきてしまった=相手(アンヌ)を "信頼できてない罪悪感" もあったかもしれない。すぐ正体を明かしていたらまだしもだったが、信頼関係が崩壊する危険性も少なからず考えられる。

それに、ウルトラ警備隊にはイデ隊員のように「ウルトラマンさえいれば」と拗ね悩む奴はいなかったが、金城小説版のハヤタは何度も自分がウルトラマンだと明かしたくなる時があったにもかかわらず、悩むイデを前にして「ここで打ち明けてしまったら、イデはますます自信をなくしてしまうだろう。」(『小説ウルトラマン』p.145) とハヤタは正体を隠すことで生じる自身の苦しみよりもイデの心情を気にしている。

ないとは思うが、もしかしたらウル警備隊の面々にも、正体を明かされることによって初めてイデのように気にしてしまう隊員もいるかもしれない。

それもこれも全て憶測の想像でしかないが。

……といった事から、正体を明かしてしまえば『居場所』なんか無くなってしまうのでは、と気にしてもおかしくはないんじゃないかな、と思う。

正体を明かしてしまうことによって今までの『関係性』が、せっかく地球で得た「新しい友だち(1話脚本参照)」を失ってしまう恐れがあったことは想像に難くない。

そもそも好きになれなかったら「本編上に描かれてないことをなんとか汲んであげようなんて気にはなれない」のだから、それだけダン=セブンのことが好きになれた、ということでもある。好きになれてよかったよ。

そして私に言えることは「そんなにもつらかったのか…労われ…」になる。ダン、つらかったんだろうな…… 労わってくれ……

(※2)

『ダンとアンヌとウルトラセブン ~森次晃嗣・ひし美ゆり子 2人が語る見どころガイド~』p.8


 最終話ダンの「涙」はカットされなきゃよかったなという願望の話に過ぎないが、第1話は脚本に出てくる大事なキャラ設定とセリフが悉く本編映像ではカットされてしまっている。
マジでそれは駄目だろ案件すぎて、私の中では『脳内限定で裏設定のノリでデフォルトの設定』になっている。(※脳内限定でそうなっている為、あたかも1話脚本に存在する設定を公式設定のように喋ってしまう)

アンヌ「キズまて負つて斗つて戦ってくれた(原文ママ)お礼に、何かプレゼントしたいわ。あなたが一番好きなものは、なあに?」
ダ ン「地球!」

とか、

ダン「僕が宇宙人だということは絶対の秘密だ。それがわれわれM78星雲中の掟だ。宇宙人である僕が、地球のために働く喜び、それはキリヤマ、フルハシ、アマギ、アンヌという新しい友だちを得たことで十分満たされるであろう。」

とか、絶対カットしちゃダメだろ……と何度も思ってしまう。

ダンとアンヌとウルトラセブン ~森次晃嗣・ひし美ゆり子 2人が語る見どころガイド~』p.9

本編にはないけど、もう言ってたってことにしたいぐらい。


アンヌの「お礼に、何かプレゼントしたいわ」の下りをカットしているのに、「あなたの地球がピンチなのよ!」だけは残されているのが残念だし、

最終回でも脚本上では「M78星雲からやってきた」というダンの台詞がカットされてしまってて、なぜかアンヌがダンのことを「M78星雲から、地球を守るために遣わされた平和の使者」と言って……

まぁ、脚本の段階で「勝手に来たんじゃなくて、遣わされてたの?」となるところだが。アンヌが勝手にそう判断したのか、そういう事になったのか。
 
なんにせよ、脚本上のダンは「宇宙人」で「ウルトラセブン」であっても、最終回で初めて「涙」を流していた(筈だった)という事実を心に刻み込んでおきたい。モロボシ・ダンはそういう繊細さ、弱さも持っているのだと信じたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?