ミッシングを見た。
ミッシング
見た。
子供が、
宝物が、
生活の中心が、
急に自分の手元から、いなくなった。
というのが話しの軸だけど
そんなのは、なんでも良かったような気がする。
現代を生きる上での憤りを表現したような作品で
物語は解決なんか一切せず
エンドロールを迎える。
泣いた。
言葉にできない感情が上へと昇ってきて泣いていた。
この映画を見て思い出したのは、
友人とか恋人とか大切なものを失ったら失ったときの喪失感が激しそうだから思い出すら作りたくない。
とか
動物を飼った時亡くなる前提で飼うのがキツイから飼わない。
とか
言ってた人達の言葉を思い出した。
なくなることでこんなにもぐちゃぐちゃになるんだったら宝物なんて楽しい思い出なんて最初からないほうがいい。と石原さとみのスクリーンを蹴破らんばかりの演技を見て思った。
人生に解決なんて一生、ない。
生きてる限り。
主要な登場人物の中で心の端を掴まれたのは
主人公の弟だった。
弟の存在が1番自分の中では、気持ちの拠り所になった。
1番自分に近く感じたから。
孤独とか職業とか。不器用さとか。生活とか1番自分の普通に近かったし理解しやすいような気がした。
毎日の生活はきれいに起承転結がつけばいいけど
つかないから、
ミッシング。
ずーっとそりゃもうミッシング。
今仲良くしてくれてる人だって、いつか離れていなくなるかもしれない。
楽しい思い出を作ってもその楽しさを破壊するほどの何かにいつも怯えて生きている。
今日も仕事しながらこころのどこかで怯えていた。
ずっとザワザワが止まなかった。
映画を見終わって思った。
あまり人に勧められる映画じゃないな。この映画。
強い強い憤りの映画だから。
だから石原さとみが主役を務める必要がある。
そうしないと見られたもんじゃないから。
石原さとみが演じてくれなかったら
このどうしようもない憤りを最後まで見ることができなかったかもしれない。
あまりにも憤りを思い切っしぶつけられて、
心が乱されたのでパンフレットを購入した。
するとパンフレットは1センチは厚みがあるんじゃないかという大ボリュームでなんと映画の決定稿シナリオ付き。
そして石原さとみの脇を固める脇役はワークショップで選ばれた著名ではない俳優たち。
一人一人丁寧にお名前と顔写真とコメントが載っていた。
当たり前だけど
名もない人ばかりが私の生活を、毎日を、作っている。
この名もない役者さんたちがミッシングのリアルを
作り上げてたんだ。と思うだけで胸が熱く熱くなった。自分もミッシングの1部なんだと、感じた。
生きてる限り、憤る。
いいかげんにしろよ。
と誰に対しても、自分に対しても言いたい。
うわーと大声で泣き叫びたいし
誰かを衝動的に殴りたい。
そういう衝動を普段は抑え込んでるけど
ひとつ歯車が狂うと私もミッシングの
主人公になると思う。
ミッシング
生きてる限りミッシング。
せめて、
私は心をなくさないでいられるだろうか。
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