神子元島灯台|静岡県下田市
神子元島灯台(A)|静岡県下田市 2022年4月24日
神子元島灯台は、下田港の沖合約10kmに浮かぶ岩場の無人島に設置され、1870年(明治3年)11月11日に点灯を開始した灯台。円形石造で下部に半円形平屋の付属舎(石造)がある。
1866年(慶応2年)の改税約書(江戸条約)締結に基づく8基の条約灯台のひとつであり、設置当時の姿のまま現在も現役である灯台(および石造灯台)としては最古のもの。神子元島はペリー艦隊日本遠征記にも「ロックアイランド」の名が何度も見られ、航海の難所として記されている。
日本最古の現役灯台
リチャード・H・ブラントンが日本で設置した最初の灯台で、かつ彼が関わった灯台の中でも建設費が最高額の灯台。これは明治期の灯台の中でも「水ノ子島灯台」「|魹ヶ埼(とどがさき)灯台」に次いで三番目に高額な建設費(109,871円83銭8厘)となっている(航路標識管理所第三年報)。石材は下田のエビス岩から切り出した伊豆石が使用され、中層および下層部の上下左右の継ぎ目には、伊豆半島稲取の火山灰と梨本の石灰石を運び込み島内で焼成した石灰モルタルをが用いられている。竣工から点灯まで建設期間は2年に及んだ。
また日本初の気象観測灯台でもある。
初点灯の翌日には正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)
※、大久保利道、木戸孝允、英国公使ハリー・パークス、通訳アーネスト・サトウらが点灯に立ち会った。
※各資料では太政大臣三条実美とされているが、『燈光 2012年10月号』〈明治の灯台話〉によると三条実美が出席した事実はない)
神子元島灯台の変遷
1883年(明治16年)には点灯開始時の28個の反射鏡型灯器から一等不動レンズを備えた四重芯灯器に改修。翌年の1884年8月には、ドイツ軍艦司令官より申し立てがあり、白色の灯塔では濃霧などで誤認する恐れがあったため現在の神子元島の大きな特徴である灯塔の黒帯がつけられた。
太平洋戦争では、昭和20年5月19日から8月14日までに4度の空襲、同年8月13日には潜水艦による砲撃を受けている。現在でも東北側に約40カ所、南東側に約4カ所の機銃跡がある。
昭和24年の戦災復旧工事では第三等大型二連閃光レンズが新たに設置された。
昭和38年の大改修では発電機が付属舎に設置され、ガス灯器から電球に変更された。現在はメタルハライドランプが現用と予備が設置されている。
昭和44年には国の文化財に指定。2009年(平成21年)には近代化産業遺産に認定。
点灯初代看守長はイギリス人のマケントン。助手には土木司仕丁・金井虎次郎、岡山涎之助、伊藤彦太郎の3名。マケントンの後任には三等灯明番のレドック。三代目は第四等灯明番ダウンが行い1876年(明治9年)まで続いた。また外国人灯明番がいちばん遅くまで残っていた灯台でもある。その後昭和7年まで島の官舎には職員とその家族が暮らしていたが、昭和51年までは交代で職員が詰めていた。現在は下田から定期的に巡回、点検している。
歌人・若山牧水と神子元島灯台
歌人の若山牧水は1913年(大正2年)10月に神子島灯台の職員となった学生時代の友人に会いに島に渡っている。牧水は数年ぶりにあった友人とその奥さんを前にして落ち付がず、来たばかりの船で帰ろうとして友人に殴られ、結局1週間ほど灯台で釣りなどして過ごす。孤島の生活の模様とその淋しさを随筆「島三題」(『樹木とその花』田畑書店収録)で記し、その時の生活を元に歌を詠んでいる。
伊豆の海や入江入江の浪のいろ
獨り黄ばみて秋の風吹く
友が守る燈臺はあはれわだ中の
蟹めく岩に白く立ち居り
切りたてる赤岩崖のいただきに
友は望遠鏡を振りてゐりけり
たずさへし我がおくりもの秋の園の
ダリアの束はまだ枯れずあり
石づくり角なる部屋にただひとつ
窓あり友と妻とすまへる
石室のしづけかればかもの馴れぬ
ところなればか泪し下る
おすみ与吉の比翼塚
神子元島灯台の入口には悲恋の伝説として伝えられる「おすみ与吉の比翼塚」の石碑がある。
島内にある旧事務所・官舎は灯台と同じ伊豆石が使用されている。昭和38年ごろまで事務所兼宿直室として運用されていた。現在は屋根の太陽電池モジュールから室内の蓄電池に電力が充電され灯台の各機器に供給している。海抜20mの高さだが、海が時化ると5mの防波壁をも越えて波が襲ってくることもある。
※神子元島上陸には辻俊介氏の企画に参加させていただきました。
参考=
『燈光』 2012年9月号、10月号、2013年5月号、8月号(燈光会)
『あなたが選んだ日本の灯台50選』(燈光会)
『明治期灯台の保全』(日本航路標識協会)
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