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僕はこの瞬間、異世界にいた/素人のプロレス観戦 2012.8.18 DDT15周年記念興行観戦

※2012年8月22日
◯『週刊プロレス 9.10増刊』
特集:DDT15周年、武道館に輝く!

普段プロレスは見ないし、本誌も読まないが、先日行ってきたDDT武道館特集だったので読んだ。
昨年の「DDT 2011両国ピーターパン」以来、二回目のDDT観戦。
昨年プロレスに誘われた時に素直に愉しめるか正直不安があった。それは「ショーとして観ていいものなのか?」だったりする。ファンにとって神聖なプロレスをそんな不埒な見方で観戦していいものなのだろうかという後ろめたさだった。

DDTはそんな次元を超えていた。

あの空間、あの時間はファンタジーであった。しかもあの会場にいた全員が作り上げる極上のファンタジー。
 スポーツとは結果が全てだ。サッカーでも陸上でも観客がいなくても成り立つのがスポーツだ。しかし、プロレスは観客無くして成り立たない。その理由がわかった。
初めて見たとき疑問に思ったのが、選手たちと観客たちの一体感はなんなのだろうということだった。一方的に「愉しませてくれ」と待ち構える凡百のエンターテイメントの観客ではない、観客自らが積極的に参加し盛り上げ愉しむというあの心構え、レフリー和田京平への「きょーへー」というかけ声を聞いた時、プロレスファンのレベルの高さに鳥肌が立った。
 プロレスとは固有名詞ではなく、ある特別な時間と空間を示すときに使われる状態を表す言葉ではないか。
それは「アイアンマンヘビーメタル級選手権ロイヤルランブル」のE・ヨシヒコ選手の登場で沸き起こり、セミファイナル「透明人間vs男色ディーノ戦」で確信に変わった。
リング中央で男色ディーノが透明人間に技をかけれている。
男色ディーノが苦悶の表情で半ケツを見せながら一人のたうち回っているその姿を、お金を払っている1万人のいい歳した大人が全員その一点を見つめていたのである。僕はこの瞬間、異世界に自分がいたということをはっきりと自覚した。僕はプロレスという世界に居たのである。

書いているうちに思い出したが、鈴木みのるを武道館で観るのは二度目だった。
昔バイトしていた本屋の店長に無理矢理連れて行かされた1995年のパンクラス武道館大会、鈴木みのる対バスルッテンの試合に来ていた。
まさか十数年後、ゆずポンのセクシーポーズを携帯で写メってる鈴木みのるを同じ場所で観る事になるとは、ああ、これぞまさしくプロレスなのか。

来年は両国2days。あの異世界に二日間もいたらコチラに戻って来れなくなるのではないか。正気を保てるか今から心配である。

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