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毛鉤

『FlyFisher』2015年6月号掲載

シーズンはすでに始まっている。
しかしまだ釣りには行けていない。
どころかタイイングさえまだしていない。
雑誌を開けば、次々と新しいパターンのフライが紹介され、それに追いつけない自分は取り残された気分になる。
手持ちのフライパターンの本も本棚に差しっぱなしである。
 数年前、いつものようにラインを振り回しながら川を遡っていると川岸に座り込んでいるフライフィッシャーを見かけた。ここは紳士たるもの先行者を追い抜くことは慎み、自らの絡まったラインをほどくのに専念しつつ、前方のフライフィッシャーが釣り始めるのをしばし待ってみた。
 しかし、いっこうに釣り始める気配がない。よく見るとぼーっと川面を眺めたり、空を見上げたりしている。ライズ待ちにはまだ日が高い。
こりゃ待っても先には行けないなと思い、挨拶でもして退渓しようと近づき「こんにちは」と挨拶をしてみた。笑顔で挨拶に応えてくれたフライフィッシャーは僕と同い年くらいだった。「釣れましたか」という釣り人同士の合い言葉を交わし、僕は「いやぁ、まったく釣れないですねぇ」と謙遜に受け取られるような言い方ではあるが真実を隠さない手慣れた返事を返し、どちらから来られたのですかと言葉を掛けた。
氏曰く、他県からこの川に初めて来て勝手がわからず、手持ちのフライを試すも万策尽きて途方に暮れていたとの事だった。
 魚が釣れた回数は誰よりも劣るが、この川に立った年数は人並みに近づいたであろう僕はついつい先輩風を吹かして「どれどれお手持ちのフライをお見せいただけるかな」とのたまい、氏は快くフライボックスを見せてくれた。

 なんとそこには色とりどり、ミッジからメイフライ、テレストリアル、ニンフに至るまで大小さまざまなフライが木製のオシャレなボックス三つに整然と分類されており、それはまるで宝石箱のようであった。
その時点で僕は早々にその場から立ち去りたかったのだが、会話の流れからして自分のフライも見せなければならない状況に陥ってしまった。
進退窮まった僕は、
「車にほとんど置いてきてしまってコレだけなのです」と一箱のフライボックスをポケットから差し出した。ウソは言っていない。車の中にはフライフィッシングを始めた時になんかよくわからなくて買った一〇番のどでかいコマーシャルフライや、自分で巻いた虫と言うより毛玉にしか見えない失敗作が山のように車にしまわれていたのだから。
透明プラスチックのみすぼらしい僕のフライボックスを手にして
「シンプルですね」と笑顔で言う氏の一言が胸に刺さる。
僕のフライボックスにあるのは黒ボディのパラシュート、白ボディのパラシュート、そしてカディス。
のみである。
意外な事に氏は僕のフライを見て「これは無かったですよ」と言った。
なにが無かったのだろうか。これはありえないとバカにされたのだろうか。僕は意味がよく分かりかねますといった表情をしてしまったかもしれない。
「私この黒のパターンは持って無いんですよ」
そういえば氏の宝石箱には黒のフライは無かったのである。
なぜ僕がこの三パターンになったかの経緯を語るには本一冊ほどの字数が必要になるので簡潔に説明すると、
「釣れたから」なのである。
数年、この川に通い続け、気付けばこのフライ以外に巻いてなかったのである。
氏の言葉に助けられ、なんとか面目を保てた僕は、おせっかいにも手持ちの黒のフライを数個プレゼントし、その川を後にした。ちなみにその日の僕は、冒頭の言葉通り、そのフライでの釣果はゼロであった。
毎年シーズンが始まりフライのことを考えると、あの時の川で出会ったフライフィッシャーのフライボックスには、今も黒パターンのフライが残っているだろうかと思いを馳せる。
残っていたら申し訳なかったな。

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