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ミツバチのささやき

素晴らしい映画を見た。語りたい。

どんな映画かというと...

1940年、スペインの田舎町に、移動映画がやってくるところから話は始まります。上映された映画はフランケンシュタイン。映画の最中、主人公のアナは姉のイザベルにどうしてフランケンシュタインは女の子を殺したのか聞きますが答えてくれません。あとで教えてあげると言ったにも関わらず寝る前になっても教えてくれないイザベルに対し、アナは本当は知らないんでしょと疑います。そこでイザベルはフランケンシュタインは精霊で、私は見たことがある、あの廃墟にいるの、と嘘をつき、ここから物語が始まります

アナのまなざし

アナは当時6~7歳で、虚実の区別がつかない世界を生きています。イザベルの嘘がアナにとっては現実として受け入れられ、物語が進むにつれ次第に嘘と現実の境目が曖昧になっていきます。存在は無垢そのものです。無垢とはなんなのか映画を見ながら考えさせられるでしょう。一方で姉のイザベルは嘘をついたり試してみたりと、言語化された世界を生きています。アナのような無垢な時期を通り越し、生と死、大人と子どもの間を行ったり来たりします。よく喋るイザベルと、あまり口を開かないアナ。イザベルの思考は言語を通じて、アナの思考はその眼差しを通じて観客に届けられます。

原題:巣箱の精神

映画はスペイン内戦の比喩にあふれているそうですが、私にはあまりよく理解できませんでした。しかし、父親が観察する蜂は映画全体を通じて一つの比喩を提示している様です。父親が生態を観察する蜂の巣にはハニカム構造が見られますが、アナや家族が住む家の窓もハニカム様の枠がはめられており、まるで家の中に住む彼らもまた「蜂」のようです。また母親がおそらくは遠くの誰かにあてた手紙を汽車に託したり、誰かからの手紙を火にかけたりする様子から、アナたちが住む街と外側が対比され、街も一つの巣であるかの様に感じます。カメラも家の内側から外を映すシーンが多かったり、固定された視点の中をアナやイザベルが動きまわったりと、まるで巣の中で自由に動き回る蜂を見ているかのようです。そんなアナが自由に動き回る世界は、想像の世界です。それはどこまでが現実で、どこからが虚実なのか見極めがつかない世界、廃墟の向こう側、荒野の先に広がる世界、そしてあとで振り返っても境界線のわからない世界です。美しいラストシーンでした。

無垢であるとはなんなのか

映画を見ているとアナの無垢さを感じます。それはアナを演じたアナトレントそのものの無垢さであるように誰もが感じるでしょう。撮影で本物のフランケンシュタインに会った際、あなたはどうして女の子を湖に落としたの?と質問したことから、アナトレント自身が虚実の区別がつかない世界を生きていたのかもしれません。一方、これを書く私や、これを読むみなさんは、もうすでにイザベルの側の人間でしょう。少し意地悪に見えるイザベルの存在がアナの澄んだ心を際立たように、アナのまなざしを通じて私たちはもう取り戻すことのできない無垢さを遠く振り返ります。私たちにもあのような無垢さがあったのではないか。なぜそれを失ってしまったのか、と。

本当に素晴らしい映画なので、みなさん見てください

無垢が真っ白で汚れのないものだとするならば、無垢でない私たちは泥だらけで拭い去れない汚れを抱えているように思えます。しかし、嘘をついたイザベルにも、キャッチャーインザライのホールデンにも、私たちの心の中にも、真っ白で無垢な地のままの、まだ色や汚れのついていない一部が存在しているのかもしれません。だって私たちは、アナの無垢な美しさに感動するのですから。




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