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3.11から10年。



Hotel New Tokyoの「ペリアンとグレイ」という曲を聞く度にあの地震当日のことを思い出す。帰宅困難となった母を迎えに行こうと待ち合わせた神保町。指定した大型書店は棚から書物が散乱したとのことで、シャッターが下りていた。古き良き喫茶店は安全が確保できないとの理由で入り口で断られる。大通りはヘルメットを被った会社員が大勢歩いていた。コンビニは見た事無いほどの人が殺到していた。明らかな非日常。

思いつきで一本裏道に入ると、人通りはなくいつもどおりの街だった。一件カフェがあったな、と思い向かうと、暗闇の中にポツンと明かりがついていた。営業していた。心からありがたいと思った。寒さに耐えながらも外で待ち合わせしなければならないのかと思っていたから。

他にお客はいなく、冷静に、でも暖かく自分を迎え入れてくれた。火を使う料理以外は出せるとのことで、暖かいコーヒーを注文した。途中、近所に働いていると思われる人が今夜帰れそうにないからと言って、お店にある瓶ビールを大量に買い込んでいた。

余震で机の上のコーヒーカップが時折カタカタと鳴る。

お店はBGMではなくFM-Tokyoが流れており、帰宅難民の受け入れ先をアナウンスしている。女性MCは低い落ち着いた声で情報を伝えてくれた。時折、励ましの言葉を混ぜながら、共にこの危機を戦ってくれそうな勇気をくれた。緊急放送のためかCMが入らず情報収集のインターバルの際、流れてきたのが「ペリアンとグレイ」

常連さんと思われるお客さんが店の安全を確認しにくる。この地域にとって、お客さんにとって、ここは一つの避難場所になっていた。
自分にとっての3月11日は、あの母と合流できたカフェの存在が強く印象に残っている。

いずれ自分のお店を持てたらいいなと、その程度に考えていた自分があの日を境に急速に思いを強めていった。 今、自分がお店をやっているのもあの地震と無関係ではないです。

北に住む多くの友人の顔を思い浮かべながらあの日をお店で迎えます。
正しい意味の安らかな日常が来ることを願って。
決してあの日を忘れません。


上の文章は、自分のお店を持って、初めてあの震災の日を迎えた時に書いた2015年のフェイスブックの投稿です。大震災の日にいたお店、神保町「カフェ・フルーク」さんは残念ながらもうありません。ただ、あの時に、街に光がある事、そして、小さいけど大きな輪がカフェは持てるという事を体験した一日でもありました。その感覚は今でも思い出せます。

10年経つと、あの時の指針となった音楽は、今の自分の向いている方向性とは別の向きになってしまった事が多々あります。でも、あの当時の音楽を聞くと、その時に貯めていた想いなどを思い出します。そのグツグツ煮出した想いは否定はできません。

そして、カフェ・カルチャーはバトン・リレーのように文化の引渡しがあると未だ信じてます。

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