救われた言葉
もう何年も『奇跡のコース』の学習から離れていますが、
私が特に印象的で、救われたアイデアがあります。
(本文の引用は許可がいるそうなので、以下掻い摘んで書きます)
私たちは[完璧な神]によって[完璧な存在]として創造されている
私たちの価値は[完璧な神]によって永遠に定められたものなので、私たちは自分たちの価値を変えることは絶対にできない
それ故に、私たちが自分たちの価値を[それ以下のものである]と判断することは、[完璧な神]に対する異議であり、これは傲慢である
自分の価値は何によっても変えられない。
何かによって増すこと・強化することも出来なければ、減ずること・弱めることも出来ない。
私はこの考えをテキストで読んだ時に、心底安心しました。
本当に肩の荷が下りました。
それまで沢山のワークをやって来ましたが、これほど鮮烈な言葉はありませんでした。
自分のことも、他人のことも「価値がない」と判断することは、完璧な神に対して異議を唱えている、というのです。完璧な存在が完璧な存在として私たちを創造したのに、「それはおかしい。そんなはずはない」と主張することは傲慢なのです。
これは素晴らしい事実ではないでしょうか。
エゴの世界では正反対です。
私たちが自分を完璧だと言えば、エゴは真っ先にこう言うでしょう。
「お前如きが完璧だと? そんなことあるはずないだろ!
なんて傲慢なんだ。身の程を知れ!」
「自分を愛する」という言葉もそうです。
自分を愛するというと、エゴは「自分だけが大事で」「自己中心的な」「気持ちの悪いナルシスト」というイメージを勝手に作り出します。そして
「そんな風になったらタダのイタイ奴だし、みんなに嫌われるから、自分なんか愛しちゃダメだよ」
と唆すのです。
そうして自分から愛されない「私」は他人から愛してもらおうと必死に努力するようになるのです。
私たちが必死に自分の価値を上げようとか、認めてもらおうとしていたのは、私たちに価値がなかったためではありませんでした。
自分には価値がないという真実とは異なる判断を自分に下したことによって、自分には価値がないと信じていただけでした。
私たちが他人から必死に愛されようとしてきたのは、自分に愛がないからではありませんでした。
自分を愛してはダメだ、という荒唐無稽な考えを信じた私たちたちは、他人だけが自分に愛を与えられるのだと信じていたのでした。
でも、本当はただ愛したいだけでした。
これらは全部、エゴの嘘。自作自演でした。
私たちは無いものねだりをしていたのではなく、ただ今ここに在るものを見たかっただけだったのです。
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