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第98段「正直という体内感覚」

歳取って良くも悪くもこらえ性で無くなった。嫌な思いしてまでやる意味無いし、嫌な人なのに付き合う必要無いし。

正直という感覚は対外的なものじゃなくて体内的なものなのだ。

それにさすがに歳取ったから、自分に正直に行動しても他人に迷惑かけないくらいの分別は付いたと思う。

つまり自分に不正をすることが一番の害悪。

特に一番こらえられないのは他人の何々すべきというべき論。貴方のべき論は貴方が貴方の範囲でやるべきなのだ。
一方で自分にも自分なりのべき論があって、べき論をお互いが繰り出すといざこざが嫌でも起こる。
いかに他人とべき論争をしないか?

いや、正確に言えば、べき論争してもいいのです、したい人は。
でもしたくない人もいるわけで、僕ははっきり言ってしたくない。
いや、さらに正確に言えば、僕自身は、こうあるべきだ!という確固たる自信があるものがそもそも無いからしたくないのかもしれない。

だってほとんどのことは、正しいか間違ってるかは、わからないから。

なんでも正しいか間違ってるかでなんでいちいち捉えるんだろう?
正しいか間違ってるかじゃわからないことがあるのに。どっちを選んでも正しいところと間違ってるところがそれぞれにあるし、そもそもその正しいと間違ってるも、当事者か関係者か部外者かで判断なんかブレブレだし。

自分の中での自分のブレ、決め切らない心のブレブレを、自分自身がまず尊重するってのが、自分の体内に正直に生きるってことだと思う。



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