AD38「バラエティプロデューサーのいない8月」
[水道橋博士のメルマ旬報 vol.201 2019年8月発行「テレビの果てはこの目の前に」より]
[業務連絡]メールやSNSの問い合わせにはすぐ返信する人が仕事ができる人らしいですが、てことは始終メールやSNSのやりとりしなくちゃいけない人生になるので、僕は仕事ができない人の方を選ぶことにします。なので連絡返信返ってこないのは、今この人は仕事してないんだなとご理解ください。
今日の授業。僕らが何か言ったり行動したり生み出したりすると、それが些細なことでもバタフライ効果的に世界(社会)に影響を与える。どうせ影響を与えてしまうのだから(自分が望む結果にならないかもだけど)少なくともいい影響になるように何かを言ったり行動したり生み出したいと僕は思う。
慶應大学の澤井敦教授『死と不安の社会学』物凄く考えさせられる良講義だった。社会と個人のあらゆる行為が死の不安への代替行為であってその代替物(宗教や科学や医学やセラピーやエンタメ)の効果が効かなくなった時どう生きるか?今まさにその時点に突入して来てる。効果を取り戻せるか?他にあるか?
調子に乗っていろんなジャンルの講義を履修してたから、この時期は課題レポート地獄。書いても書いてもまた増える。人文社会系はそれでもなんとかなるのだけど、工学系の講義のレポートは流石に断念。対応できない(筆が進まない)自分の脳が非工学系なんだと思い知らされる。なんか悔しい。
夏休みなのに夏の集中講義取ってしまった4月を悔やみつつ、酷暑の今朝からとりあえず受講してみたら、これが半端なくおもしろい!!いや、学問ってほんとおもしろい!今まで我ながら色々エンタメやったり作ったり経験したけど、学問こそが最高のエンタメなのを確信してる夏。これ人生にじわじわ来る。
学問って、赤坂の高層ビルの一室でやれ芸能界がとか視聴率とか、渋谷の高層ビルの会議室でやれクラウドだとかKPIだとか、六本木の高層ビルの一部屋でやれ課金だとかPDCAだとかやってるより1万倍くらい生産的で未来価値のあるエンタメ行為だ。(自分比べ)
気付け万の民!
東大正門近くの古い喫茶店にてカレー。夏休みで昼時なのに閑散。いつからやってるんですか?と聞いたら大正3年と。1914年!!第一次世界大戦開戦の年。
皇學館大学の板東洋介先生の集中講義『神道と儒教』圧倒的におもしろかった!毎回が自分が知らなかった神道と儒教との邂逅。内容が有りすぎてここには書けないほど。今後の生き方自体がアップデートされた講義だった。
『神道と儒教』孔子から記紀から風土記から朱子から吉田兼倶から山崎闇斎から賀茂真淵から本居宣長から平田篤胤から柳田國男から折口信夫まで、他界と現世、能と歌舞伎、本地垂迹、陰陽と理気、神道と国家神道の根本的な違い、SNSと芸能界、あらゆることが現代日本の歪んだ社会と繋がっている。
8月は生と死について毎年考える。
お盆でもあり原爆の日であり終戦の日であり自分の誕生月でもあるから。人はどこから来てどこへ行くのか?灯りがオンになってオフになる間の、ちょっとした灯ってる時間が生きてる期間。その灯火で自分は何を照らすのか?何が観られるのか?そんなことを考えてる。
自分の本を買ってくれたりおもしろいと言ってくれたりいろんな仕事に声をかけてくれたり困ってる時に助けてくれる人がいる。そんな時自分の人生は人に活かされてるんだとすごく実感する。自分が生の火を灯っていられるのはいろんな人の生が灯してくれてるからなのだ。
8月は生と死について考える。
昨夜はコルク佐渡島さんとカフェマメヒコ井川さんと小説を産み出す会議の定例12回目。終わって一人、好きな小説と上手い小説と売れる小説と書きたい小説と読みたい小説の違いを考える。全てが揃うと勿論いいんだけど、無理な場合、では何を大事にするか?自分のスキルで出来る出来ないも当然有るし。
コンサル的な人と話してて会話のレベルの低さにびっくりすることがある。でもその人はそのコンサルレベルで十分食ってる(なんならかなり儲けてる)わけだから、つまりレベルの低いコンサルの方がむしろ重宝がられてるって残念な現実にさらにがっくりする。本当に本当にそれでいいのだろうか???
何かSNSで書かれたのを読むとつい自分のことだと思ってしまう症候群ってなんなのだろう?
つまり自分にも思い当たる節があるということなのか。
自分もそう思う時もあるし、相手にそう思われる時もある。
でもそれでハッとなったなら、痛いところを突かれたわけで、そこは自分が直せばいい。
なんかカッチョよく建てられたビルディングとか、素晴らしい景観の観光地とかで、そこの足元にカラーコーンが並んでるとなんかガッカリすることよくある。仮設ならともかく明らかに常設的に置かれたりもしている。そろそろ人類は景観を美しく魅せるカラーコーンを産み出す必要があるのではないか?
ほとんどの失礼な人はその失礼さに無自覚だから失礼なことをしてしまうわけで、気づいたらやめるのがほとんどだろうけどその失礼さには自分ではほとんど気づかないから結果ほとんどの失礼が無くならない。でこれ頭の良し悪しとはあまり相関関係が無い現象。無自覚無意識無作為の罪はほんと罪深い。
知らない会社の知らない人じゃ無いだけに色々思うところはある。いい意味でも悪い意味でも。
恫喝と冗談の違いとか。圧力と一生懸命の違いとか。攻めると守るの違いとか。
いい意味では、それが炙りだされて少しでも変わるきっかけになればいい。
悪い意味では、悪いところがそのまま出てるとこ。
この人とこの人はどうも合わないってのはいっぱいある。それでも付き合う必要があるのか?付き合う必要は無いと思う。では国と国ならどうなのだろう?この国とこの国はどうも合わないってのは(世界史の中で)いっぱいある。それでも付き合う必要があるのか?どっちがいいのだろう???
『三体』2100万部中国最大の衝撃SFただ今読了。凄まじかった。SF妄想力がその国の未来力だとすれば恐ろしいほどおもしろい。そして今や表現の自由は半径5mの悩みと衰退経済にリンクして矮小化された我国よりも実はあるのではないか。なんていうか三国志を読んだ時の興奮にも似た脳内覚醒感。
闇と光について考える。暗い世界から明るい世界は見えるけど、明るい世界から暗い世界は見えない。
難解さと平易さについて考える。わかりにくさを理解できるとわかりやすさも見えてくるけど、わかりやすさばかりを追うとわかりにくさは見えなくなってしまう。
自分がわからない世界をどう見るか?
「最近なんとかだよね」「最近の誰々は」とか書かれてることのほとんどは結構昔からそうだったりする。その事象にその時自分が気づいたから世界がそう見えるように、その人がその時そういう人だと知ったからそう思えるように、自分の世界がそう変わったからなのだ。つまり世界を変えるのは自分なのだ。
昨日した仕事はある著名なタレントの方に取材の申し込みのメールを1つ書いたくらい。そういうメールは、書くのも送るのも緊張したけど。こんなんで生きていけるのかとか思いつつ、
そしたら、今朝起きたら、返信が来てて、取材OKになった!
やったー!!
気分の良い朝。
おはようございます。
一生懸命、一所懸命、一社懸命、一緒懸命。
すごく大事なことだけど、そんなに一々に命を懸けるほどの命の分量は人(自分)にはそもそも無い。一人の一つの命の中でやれることは限られてるのだ。
なので今日という一日は他の多のために命を懸けるのではなく、自分の命のために今日という日を懸ける。
BSプレミアムで80年放送の『NHK特集 シルクロード-楼蘭王国を掘る』石坂浩二さんがナレーション。彼の言葉が淡々と怜悧で凄くいい。というか今のドキュメンタリーは「すると!」とか「しかし!」とかこの後どうなったのか?的煽りの言葉が多すぎるんだと思う。それは画を見ればわかるのに。
8月9日。NO BORDERを観に(踊りに)大阪城公園まで!これはおもしろい!!全く新しいエンタメ体験空間。たしかに観客と演者がノーボーダーで楽しむと楽しませるがノーボーダーなステージ!!僕もキレキレで踊ってました笑
8月10日。ガガガSPとサンボマスター。神戸の一夜。
ガガガSPとサンボマスターの2マン。超満員のありえないくらいの伝説の夜。サンボ山口さん「泣くな」と絶叫!コザック前田さん「生きろ」と絶叫!角田は号泣しながら拳を振り上げる神戸の夜。死ぬまで生きてやろうじゃないか。
ガガガSPとサンボマスターの神戸2マン。本当に本当に最高で、いい歳の自分は普段ライブでなかなか拳を振り上げないのだが今日は気づいたら振り上げてた。「何歳だからできない」とか寒いこと言ってんじゃねえって山口さんが絶叫してた。日々の日常こそが人生。生きる勇気が出てきたよ。
ガガガSPコザック前田さんが40代をまもなく迎えて、でも青春パンクってむしろこれからなんじゃないだろうか。20代の頃のトゲと傷心と弱男もいいけど、それらを40代が歌うことこそパンクisフォークの真骨頂なんだ。
なんてなんてかっこいいんだ。そしてどんどんかっこよくなっていく。
ガガガSPとサンボマスターすごかった!人生とは祭りだ。
世界はそれを愛と呼んで、中途半端なまま突き進むのだ。
8月11日。写真家ワタナベアニ×角田陽一郎で下北沢にてトーク。とても楽しく含蓄あり秘密話あり、多くの方に来ていただき最高でした!たくさん質問もいただいてとても勉強になりました!
8月14日。weezerの豊洲PITライブ。最高!カバー曲を披露。リバースは同じ歳なので、a-haのTake on meとかTOTOのAfricaとか中学生の頃のドンピシャな曲。
8月15日満月。お盆。
一人沈思黙考。
最近、文章を書くとき自分のことを「僕」と使うのがなんか恥ずかしくなってきた。以前は「わたし」が偉そうでたまらなく嫌だったのに。なんていうか今は「僕」の方が偉そうに感じてしまって「わたし」と書く。
この感覚の違いはなんなのだろう?
おはようございます。今日8月17日は誕生日。40代最後の年。
自分が自分でやれることなんてとても限られています。
なので自分が自分でやれることを、日々大事にして生きていこうと思います。
いつもありがとうございます。
誕生日は母の実家に母に会いに。久々たくさん話す。おしゃべりなのは遺伝だな(笑)。
33年来知り合いの高校からの友人と会食。お互い49歳。月日は巡り時代は変わりそれでも以前と同じで彼だからこそ話せることがある。この33年間で悩みの内容も僕らの外見も遷り変わったけれども。
モンゴルのウランバートルに行った時、広大な平原にも関わらず都市全体がギュッと一カ所に固まっていて(なので渋滞がひどくて空気が汚れていて)まるで都市全体がゲルなんだと思った。都市の有り様はその国の生活とフラクタル状態になるのかもしれない。
権現さまとは仏が仮に神の姿で現出したという垂迹の状態(らしい)。つまり「権」という漢字にはそもそも仮という意味があるのだそうだ。権力や権威というのは力や威勢を天が仮に施政者に渡しただけに過ぎないし、権利だって天が仮に人々に渡しただけに過ぎない。いつ無くなるかもしれないのだ。
さてさて色々動いてる。崩壊と胎動。マスコミと芸能界と広告業界は社会の一番表層だから、その崩壊と胎動が顕著にあぶり出てくる。まだまだ起こる。
ちなみに僕が思うのは、
カリオストロの城の次元大介風に言えば、
「おもしろくなってきやがった」
ルパン風に言えば、
「まくるぞぉ!」
です!
そして最後に、新しい発表があります。
『知的好奇心向上委員会 ICUC』という集まりをキャンプファイヤーさんと新しく始めることにしました。
ぜひよろしくお願いいたします。
https://camp-fire.jp/projects/view/188520
個人のしあわせって結局のところ、自分の中の◯◯欲をどう刺激し、解放し、充足させるかだと思います。食欲、性欲、愛欲、金銭欲、自己顕示欲、承認欲、冒険欲、名誉欲、いろいろあるけれど、その人にとって何か一番大切な◯◯欲なのか?
それはホント人それぞれだし、人生の中でも歳月で変化するのではないでしょうか?
僕は半世紀くらい生きてみて、結局自分には知的好奇心しか無いと知りました。若い頃は様々な欲望が確かに有ったけど、それは半ば叶い半ば叶わず或いは途上で、やがてそれらを追い求めること自体の欲望が無くなって、今はこの世界の“からくり”にこそ興味があります。
そして今やそんな自分の知的好奇心の赴くままにどんどんインプットしたものを、じゃんじゃんアウトプットして、番組を制作し、本を執筆し、イベントを開催したりして、それが僕の仕事である“バラエティプロデュース"になっています。
つまり知的好奇心こそが生きることの本質なのです。
皆さんはどんなことに好奇心を持っていますか?
何をやってるときにワクワク感を感じますか?
何を知ったときに気持ちがドキドキしますか?
この『知的好奇心向上委員会』はそんな一人一人の知的好奇心がくすぐられるようなさまざまな「ヒト・モノ・コト」を、皆で持ち寄って話して聞いて調べて楽しんで、自分の知的好奇心をアップデートしちゃおうって集まりです。
その知的好奇心は、あなたの日々の生活をエンタテインメントにするかもしれません。
その知的好奇心は、あなたのビジネスのフィールドを拡げるかもしれません。
そんな知的好奇心こそが、あなたの人生を最高に輝かせるのだと思います。
【知的好奇心向上委員会】の略称【ICUC】には、
I see,You see!(わたしがわかった、あなたがわかった!)というインタラクティブな意味も込めております。
一緒に知的好奇心をアップデートしましょう。ワクワクしながらお待ちしてます。
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