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「夜は開けぬまま、黄昏に In the Twilight without the Dawn Coming」


かつて45歳を過ぎて、「いまだ、夜明け前 Still Before the Dawn」という掌編を書いたことがある。
それはたしか、いつかは小説でも書いてみたくて、でも書ける勇気も無くて、自分の人生のことならなんとか書けるだろうと思い書いた作品。
自分が23歳でテレビ局に入ってから30代も、40代も、何度も何度も夜明けを待ちながら、今か今かと、未だ未だと、自分の人生にまた朝はやって来ないのかと、自分の前途にまだ光は差し込まないのかと、そんな何度も何度も裏切られたような、そんな忸怩たる想いを書いた作品とも呼べないような文章だ。

それから1年ほどして、僕はテレビ局をやめることになる。つまり、夜明けを目指して、今いる場所を抜け出して、何処かあてのない旅路に出たのであった。場所が変われば夜明けはきっとやってくるのだろうと、なんとなく根拠もないまま、行くあてもないまま、出発したのだ。

さらにそこから5年が経って、世界ではコロナが蔓延し戦争も始まって、社会では出会いも別れも繰り返して、個人では信頼も裏切りも重なって、いつしか自分も50代を超えた。

そして今日、そんな過去の忸怩たる想いを、つまり夜明けを待ち続ける想いを、ふとしたきっかけで、ふと想い出したのだ。
ふと想い出したということは、つまりそんな想いをすっかり忘れていたのだ。
自分の人生がいつも未だ夜明け前で、朝の光を待ち焦がれていたということさえ、いつしかもう忘れていたんだと、ふと気付いたのだ。

では、この5年で、僕には果たして夜明けは来たのだろうか?
いや、未だ来ていない。
というか、いつしかその夜明け前の真っ暗な時分に、自分という存在がすっかり慣れてしまっていたかもしれないと、想い至ったのだ。
つまり、その夜明け前の暗さは、いつしか、自分の人生の黄昏の暗さなんだと、ようやく気付いたのだ。
夜が明けぬまま、いつしか、それも知らぬ間に、黄昏は確実にそーっとやって来るのだ。

黄昏とは、誰そ彼、つまり夕方、薄暗くなって向こうにいる人が識別しにくくなった時分のことだ。
向こうの人が自分には見えない。
でもそれは、むしろ自分も向こうの人には見られないということなのだ。
見えないのは周りが暗いからなのか、あるいは眼の衰えからなのか。
なんか、そんなことを独り想いながら、なんだか物凄く物憂げな暗い文章を深夜に書いてるなとも想う。
でもそれは、夜が明けぬまま、黄昏を迎えているんだと知ったからかもしれないのだ。

 夜明け前が、闇は一番深い。そして今の闇は深く暗い漆黒の闇だ。
 だとしたら、だからこそ、それこそ夜明けは多分まもなくだ。
 今は未来の夜明け前なんだ。


そう過去に書いた自分。
そして今の瞬間、その漆黒の闇は、黄昏の時分を迎えたのだ。
多分、暗闇を抜け出すことはもう無い。
僕は、その漆黒の闇の中を、きっとそっと彷徨い続けるんだ。
そこに光はない。
ならば、今や僕ができることは、
そんな晦冥な世界に、
自分の眼を、頭脳を、身体を、
そんな漆黒な存在に、
自分の心を、暮らしを、生き様を、
そっと重ね合わせることなんだ。

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