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第176段「『最大多数の最大幸福』with SNS」

誰かの意見を聞いた時、その人がどのレベル(段階)で話してるかってレイヤーがある。
でSNSとかの文句リプってだいたいそのレイヤーがズレている。
そのレイヤーのズレを認識できれば争点ははっきりするんだけど、その文句の人はそれに気づかないから絡んでくるわけで、延々争点違いを繰り返す。

つまりそれをただ思って書いてる場合もあるし、色々慮って書いてる場合もある。同様に書かないこともある。
自分の想いをどこまで表出させるかなんてその人の思惑次第だ。
で文句リプとかは大体その思惑以外のところを論点に上げてくる。
いや、そこ論点にしたく無いからそのこと触れて無いだけなのに。

で、そんな人は実際の社会でもよく遭遇する。
でもその場合はそのレイヤーの違いや思惑の違いを直接説明できる余地があるんだけど、SNS空間ではなかなか難しい。
それには言葉選びや文脈や流れから把握する洞察力が必要なんだけど、文句リプの人はその洞察力がそもそも無いからリプしてくるわけで。

これ、各界の有名人や企業はそのレイヤー違いの文句リプへの対応大変だろうな。
物理的手間もかかるし精神的圧迫もあるし、これ結果創作活動や経済活動にも影響する。
配慮に値しない指摘や文句にいちいち配慮しないと活動できないっていう、矛盾。
なんかその人の才能の無駄遣いが残念だし勿体ない。

今一度「最大多数の最大幸福」って観点に立ち戻れないだろうか、とか考える。
ベンサムが言った18C19C的な功利主義的な言説以上に、今のSNSありきの現実社会で、どういうふうに個人が振る舞うとより社会全体が快適になるか?って観点。
そっちの方がその個人も快適度が増すと想うんだけど。

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