見出し画像

第146段「時間の共有と価値」

時間というのは自分の時間と他人の時間との組み合わせなんだ。時間価値は人それぞれだからそこに齟齬がしばしば現出する。他人との時間共有は時に面倒臭くて億劫だけど一人では生きられない以上致し方ない。というか他人と生きるために時間という共有概念をそもそも人は身につけたのかもしれない。

他者と自分が時間共有する際、むしろ他者の時間価値に自分を合わせる必要が生じる。
なのでその他者(他人や組織等)の時間価値が自分と明らかに合わないと一緒にいることはかなり苦痛だ。
その他人や組織が何に価値を置くか?ってことが共有する前にわかったら良いのに。
合わないなら会わないから。

でも大概の場合は接してみてからその他者の時間価値観がわかる。
会う前にこちらが想像してたのとは大体違う。
それがおもしろいとことも言えるし面倒なとことも言える。
まあいずれにしてもそれが苦痛を伴うのなら時間を共有するのはお互いが不幸だ。
それに気付くのに大分人生の時間がかかったけど。

この先の仕事や生き方や目標を考えていても「将来何やろう?(やりたい!)」と「残りの人生何やろう?(やりたい!)」で大分趣きが異なる。歳食ったからか最近前者から後者に意識が変わった。
すると具体的な考える要素の順番が変わる。
例えば一度はやってみたいってことを後回しにしなくなった。

そうやって、それぞれの人の持つ時間価値は、日々刻々まさに時間によって変化するのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?