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第160段「さみしい理由」

人と別れるというのはさみしいものだ。
それはその人との関係や愛情の濃淡というより、むしろその人と過ごした時間の再現性が今後無くなるという自分の中の空虚さなのかもしれない。例えば卒業式のさみしさは今後誰々と会えなくなるからというより、もうその時間空間は二度と自分の人生では再現されないから。

自分の人生で言うと、学校を卒業したり、番組が終了したり、映画の撮影がクランクアップしたり、プロジェクトが終わったり、その都度さみしい。
好きな漫画が最終回を迎えた時のような。
好きなバンドの解散のような。
その終わりがというより、自分の過ぎ去った時間と記憶の堆積がさみしいのかもしれない。

ある人ともう2度と会わない(会えない)として、その場合ある人が亡くなるということと僕の中で本質的な違いがあるのだろうか?
違わないとするなら、人の死を悼むという気持ちは何なのだろう?
だって必ず自分も死ぬのだし。
人の生死を想うとき、僕が昔から思っていること。

そして、自分の人生を見直したときにも思うわけです。
自分の存在の消滅(生と死〕とかもそもそも悼むべきものなのかと。
で、結局自分の哀しみなんかよりも僕も何か作品を産み出すしかないのだと、自分は腹をくくるわけです。

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