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 わたしたちが明るい部屋の窓から、暗い闇の外を見ると、何も見えません。
 部屋の灯りの明るさが外の宵闇の暗さの邪魔をするからです。
 暗がりを見るには、自分たちの部屋の灯りをすーっと消して、自分たち側の世界を暗くしなければいけません。
 部屋の電気を消して、窓から暗い外を静かに眺めると、やがて宵闇の外の景色に目が慣れ、そのうちに微かな灯りが見えてきます。宵闇の中に実はいろんな世界の様子が見えてきます。
 一方で、外の宵闇を歩いていると、建物の窓の灯りの輝きは、すぐに目に飛び込んできます。建物の中の明るい部屋は外からははっきりと見えるのです。わたしたちは窓を通して暗い外から明るい部屋を覗かれたくなければ、カーテンや扉で遮蔽して、灯りを外に漏らさないようにするでしょう。
 つまり暗い世界と明るい世界を行き来する出入り口が“窓”なのです。
 そもそも日本の古い考え方では、この世界は明るい顕世(現世)と暗い幽冥(ゆうめい)に別れていました。
 わたしたち人間は普段は明るい現世にいるのですが、妖怪やお化け、亡くなった人の御魂は暗い幽冥に存在しているのです。
 だから、明るい場所にいる僕たちからは普段は幽霊やお化けは見えないのです。
 一方で、幽霊やお化けからは、私たちはいつも見られています。
 わたしはテレビのバラエティ番組を作っているときは、そんな闇の世界の暗い場所の微かな灯りを、お茶の間の明るい世界に届けたいと密かに思って作っていました。まさにテレビ画面のフレームが世界の窓のフレームになって、現世の僕たちが幽冥な世界をその窓=テレビから密かに覗き込む。そこにはもしかしたらおどろおどろしい妖怪が潜んでいて目を背けたくなるかもしれないし、肝が冷えるような幽霊が棲んでいてドキドキしてしまうかもしれません。
 そんな世界は、ちょっと覗くのが怖いような、知ってしまうことを恐れてしまうような世界かもしれません。でもそんな闇の世界が確かに存在していると知ってみることこそ、私たちがこの世に生を受けた存在意味なんだとも思うのです。
 だけど、最近の現実世界=現世は、明るすぎてとても窮屈な気がします。どんどんこの世界は灯りの照度を上げて、どんどん闇に灯りを投影させて、何かを照らし出そう、あぶり出そうとしている気がしてならないのです。あるいは、そんな闇の暗さと明るい世界を遮断するように、その窓を遮蔽物で遮断して、「そんな“闇世界”とは我々は無関係ですよ」と窓から世界を覗けないようにしているのかもしれません。
 でもわたしたちが、もし自分の外側の世界の真実を知りたいのならば、実は灯りの照度を上げて明るく照らし出そうとするのではなく、実は自分たちの住む灯りの照度を下げて、世界の仄暗さに目を慣らす必要があるのではないでしょうか。
 自分たちの目がその暗闇に次第に慣れてくると、きっと見えてくるものがあります。それは見たくないものかもだけど、もしかしたら存在を知りたくないものが有るかもしれないけれど、でもそれをはなから無きものとして無感心で生きるのは、わたしはとても嫌なのです。
 それは、世界をつなげる窓を閉じることを意味します。
 窓を開けて、自分の部屋の灯りを消して、外の世界の闇をそーっと覗いてみる。
 その時、見えてくる灯りこそが、本当の世界なんだと思うのです。

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