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BC42「テレビ局に入って、バラエティのプロデューサーになった理由」

突然ですが僕の大学の出身学部は、東京大学文学部西洋史学科です。僕は学生時代、西洋の歴史を学んでいました。その西洋史学科の中で学生はそれぞれ各々専門の時代を選択して、指導教官のゼミを専攻するのですが、僕の専門はフランス近代史、特に18世紀末の『フランス革命とナポレオン』でした。ちなみに学生時代の同級生には同じ西洋史学科で女優の高田万由子さんがいました。彼女もフランス近代史専攻で、当時から東大生タレントとして活躍してた彼女は、なのであまり講義に来ず、彼女によくノート貸してました(笑)。今日はそんな歴史を学んでいた学生が、なんで、テレビ局のバラエティ番組のプロデューサーになったのか?というお話から始めたいと思います。

そもそも子どもの頃から、歴史好きだったのかというと、実はそうではありません。というか嫌いでももちろんありません。というより実は“何でも”好きだったのです。というか嫌いなものが無かった子どもでした。なんていうか、それは今でもそうなのですが、何かを“嫌う”ということの意味が、子どもの頃から実はよくわかっていないのです。
人はなぜ何かを“嫌う”のでしょうか?いや何かそのことでイヤな思いをしたりして、事後的に嫌いになるってことはあるでしょうし、例えば食べ物なんかで、苦手ってのはもちろんあります、僕も苦手な人もいますし、嫌いな食べものもあります。だけども、なんていうか、こと何かを知るという行為の中で、例えば音楽で言うなら“ロックは好きだけど、クラシックは嫌いだ”とか、“芝居は観ないなー”とかのいわゆる「食わず嫌い」とか、僕にはそんなに意味がよくわからないんです。なんで知りもしないで嫌えるんだろう?と疑問に思ってしまうのです。


というか、そもそも「何かを知る」という行為において“○○が嫌い”と思うことがいったい誰得なのでしょうか?だって観る前から嫌わなければ、少なくとも観たらおもしろいという経験を経験できますし、仮に観てつまらなくても、つまらないって思うだけで、苦手なモノを食べることほどの肉体的苦痛すら無いわけです。当然“時間の無駄”って思うことはありますが、でもそれだって「何かを知る」という行為という意味では一概に無駄だと言えないと思うのです。


例えばある映画を観た人がいて、感想を述べていたとします。大きく分けて「この映画はおもしろい」あるいは「この映画はつまらない」ってののだいたい良い悪いの2種類だと思うのですが、僕は他人の“つまらない”って悪い方の意見は信用しません。なぜなら、“その人にその映画をおもしろいと思うだけの素養がないだけかもしれないから”です。でもこれは自分自身にも言えてまして、仮に僕がある映画を観て、そんなにおもしろくないなあ、と思ったとします。というか当然思うことも多々あります。でも他の人が仮に“おもしろい!”と思ったとしたら、きっとそれは僕に「その映画をおもしろがる素養が無いだけ」なのかもしれないじゃないですか。


なので、僕はこう考えます、少なくとも僕にはこの映画はおもしろくなかったけど、あの人にはおもしろかったと思えるポイントがあった。それはいったい何なのだろう?それを俄然知りたくなるのです。で、「なるほど!僕には最初わからなかったけど、この人は、この部分におもしろさを感じたんだなあ、なるほどなあ!」ともし僕が発見できたなら、その行為だって既に「何かを知る」という意味では、“つまらない理由”を知ることができたという“人生における発見”だと思うのです。


そして僕はさらになんとなく感じるんですが、人が「○○がつまらない」ってある作品を指摘する行為って、なんとなく「この作品のダメなところがわかった」って自分はそこに気付く能力がありますよって言いたいための“知的に見せたいポーズ”に過ぎないんじゃないかとも思えるのです。その指摘が仮に正しいとしても、僕はそれを聞いて、その作品を拒絶するのではなく、強いて言えば、自分でその作品を経験して、その指摘された箇所を自分がどう感じるか?を知りたいのです。確かめてみたいのです。

そんな風に、僕は子供の頃から何でも知りたいという「知的好奇心」をめちゃめちゃ持ってる人間だったようです。それは、家でテレビを観ていてもそうですし、親と話していてもそうですし、何かイベント行事とかやっててもすごく行ってみたくなるし、なんなら小学生のとき、風邪で学校休んじゃって、翌日学校に行くと、自分の休んだ日に起こったこと、すごく知りたくて仕方が無いのです。


そして僕のこの知的好奇心は“雑食”です。バラエティに富んでいます。もうなんでも知りたいのです、なんでも食べたいのです。もうくだらないと言えるジャンルでも、逆にめちゃくちゃ高尚と言われるジャンルでも、そこに優劣などつけずに、ただおもしろいことをいっぱいいっぱい知りたいしいっぱいいっぱい経験したいのです。で、それは趣味の分野だけでなく、学校のいろんな教科でもそうでした、この教科は好きとか、この教科は嫌い、とか全くなくて、もうあらゆる教科を知りたいのです。テレビで流行ってるくだらないと言われる深夜のエッチな番組をこっそり観ることと、学校で習う難しいと言われるみんなが苦手な“数学”を勉強することも、僕にはほとんど優劣無く興味があったのでした。


なので昔から「そんなくだらないこと興味もってないで、勉強しなさい!」って言う先生などのオトナたちの言っている意味がわかりませんでした。「先生にはくだらなく見えるんだろうけど、あなたがそれをくだらないって思ってる段階で、すでに知的好奇心が無い、くだらないオトナだなあって」思ってる小学生でした(笑)。われながら扱いにくいガキだったと思いますが。また逆に「学校なんてくだらない、大事なことは教えてくれない」とかの世間のアウトロー的言い草も違和感を感じてました。「そうかな、意外に大事なことも教えてくれるのにな。そんなに毛嫌いしなくても・・・」とか考えてました。

で、高校生になりその後の進学先を決める際、そんな“雑食”な僕の“知的好奇心”を満たす学問はいったい何なのだろうか?と漠然と考えていると、そこで僕はついに『歴史』なんだと思い至ったのでした。だって『歴史』ってあらゆるジャンルの今まで何がどういう風に起こったのか?を研究する学問ってことじゃないですか?だとしたら“物理”が知りたければ、『物理の歴史』を学べばよいし、“アダルトビデオ”に興味があれば、『アダルトビデオ』の歴史を研究すればよいし、“ローリングストーンズ”が好きなら、やっぱりアルバム1枚目から、どういう変遷を経てきたかの『ローリングストーンズの歴史』を知りたくなるわけです。『歴史』を学べば、何でも知ることができる!何に興味を持ってもいいんだ!ってそのバラエティな雑食性に気付いたわけです。
歴史は学校の選択科目では日本史と世界史に分かれていますが、迷うこと無く世界史を選びました、だって日本も世界の一部だから。世界史取っとけば、日本史学んでもいいんだ!むしろお得だなあ、とか考えていたわけです。なので、日本史と世界史のどちらを選択する?ってことではなく、日本史も知りたいから世界史を選択したのでした。

なので、この知的好奇心を満たすことが僕の高校時代の勉強だったので、いわゆる受験指導受けたりとか受験対策的勉強など全くしませんでした。というか机に向かって勉強したことなどほとんど皆無です。年号とか暗記したこと全然ありません。ここ試験に出るぞ!とか全シカトです(笑)。興味あれば、試験に出る出ないにかかわらず、それに関する本を寝っころがってただ読んでました。


よく世間には「教科書つまらない」とか「教科書に教わったことなんてない」的な物言いがありますが、僕はそんなこと思ったこと逆に全くありませんでした。だってみなさん世界史の教科書ちゃんと“読み物”として読んだことないですよね。これが、読み物として世界史の教科書とか読むと、これが意外におもしろいわけですよ!さっきの映画の感想の話と同様で、一見感情の無い淡々とした文章なんですが、時には熱く書かれてる箇所があったりして、そういうの見つけたりすると、いろんな意味で勉強になります。教科書は一面的で深みが無い、だから人生の役に立たない、って決めつけるのではなく、決めつけないで先入観無く読んでみると、いろいろ発見があるってこと、そのプロセス自体がおもしろいわけです。
特に高校2年生のとき、そんな性分なのでこの際、中公文庫の『世界の歴史』全16巻(旧版)を全部読もうと思いました。で、1巻から読みすすめていくと、それこそ歴史を知るという“発見”という意味で最初はおもしろかったのですが、特に10巻目の『フランス革命とナポレオン』はそれを超えておもしろかったのです。歴史事実を知るという“発見”のおもしろさを超えて、1789年に始まるフランス革命やその後のナポレオンの時代の人々のダイナミックな動きのストーリー展開に熱く魅了されてしまいました。なんていうか、例えば“機動戦士ガンダム”の地球連邦軍とジオン公国の闘いはモビルスーツ同士のメカの魅力を超えて、敵味方の人間たちのストーリー展開がおもしろいと思うのですが、フランス革命における各派閥の争いには決してモビルスーツは登場しませんが(笑)、それ以上のストーリーが展開されているのです。
なのに学校の皆はアニメの中の宇宙世紀の地球連邦vsジオン公国の盛衰は嬉々として語るのに、教科書の中の18世紀のナポレオンvsイギリス軍の盛衰は、教科書に載ってるというだけで世界史の授業というだけで“難しい”って敬遠するのでした。

まあそんな感じで、高校時代にはいわゆる受験勉強は全くせず、さすがに現実はそんなに甘くなく、現役では大学受験全滅でした。で、浪人することになります。ちょうど1989年です。まさに日々受験勉強しなければならない浪人という、いつにも増して知的好奇心がバリバリの1年間です。そしてその年、歴史が、まさに歴史教科書レベルで、歴史が動いたのです。
1月に昭和天皇が崩御され、昭和から平成に変わります。春から共産主義のソ連や東欧諸国はガタガタと揺らぎ始め東欧革命が始まり、6月には中国で天安門事件が起こります。ゴルバチョフのソ連ではペレストロイカ(改革)が進み、そして11月には東ドイツのベルリンの壁が崩壊して、12月にはマルタで米ソの首脳が会談して冷戦の終結が宣言されたのです。まさに教科書以上の歴史が現実に起きている。数年前に読んだ『フランス革命とナポレオン』の1789年の熱い革命が今1989年の現実世界で起こっている。そしてさらに、僕は思い至ったのです。フランス革命は1789年、ちょうど今から200年前だ。ちょうど200年前にフランスで王制打倒の民主主義革命が起こり、そして今まさに世界で共産主義打倒の民主主義革命が起こっている。この周期性は偶然なのだろうか?いや何かの循環性があるんじゃないだろうか?なんだ?なんなんだ歴史って!
そんな激動の1989年に、僕は浪人という知的好奇心が高い期間を過ごし、日々の受験勉強の教科書という内側と、テレビニュースで観る現実世界という外側の、まさに両方で歴史のダイナミズムを肌で感じてしまい、僕はそこから本格的に“歴史”が具体的に好きになって行くのでした。

そんなわけで、文学部に進学し西洋史学科では『フランス革命とナポレオン』を専攻したのでした。ちなみに卒論のテーマは『独裁者ナポレオンの登場はフランス革命の一部なのか?』。フランス革命に限らず世界のほとんどの革命は、独裁者を倒して民衆に権力を奪還するという理想で勃発するのに、結局また最後には新たな独裁者を生んじゃうって傾向があり、そのなんか「せっかくダイエットしてもリバウンドしちゃう」みたいな“歴史のやるせなさ”というか“人間の弱さ”の真意を知りたいと思ったからなのでした。
そして、このまま大学に残り歴史学者になりたいなあ、とか若干は思いつつ、もともと興味もあったエンターテインメントの方向にも引かれ、サークルでは演劇もかじり、もともといろんなジャンルに興味が行きがちなので、逆に言えばひとつのことに熱中するだけの根気はあまりなく(笑)、就職活動で結局テレビ局を選ぶわけです。でもテレビという仕事を選んだのは、結局多ジャンルを扱うことができるということと、くだらないことも高尚なこともどっちもやれるんだってことを魅力だと思ったからなんでしょう。
入社して制作局に配属される時、バラエティかドラマか希望を聞かれるわけですが、僕はバラエティを選びました。それはドラマよりもバラエティが好きってことではなく、バラエティは“いろいろな”って意味の“多様性”ということです。だとしたらドラマだってバラエティの一部だから。バラエティやっとけば、ドラマやったっていいんだ!むしろお得だなあ、とか思ったわけです。なので、ドラマとバラエティのどちらを選択する?ってことではなく、ドラマもやりたいからバラエティを選択したのでした。

こうして『歴史とバラエティは知的好奇心の賜物である』と思って、歴史とバラエティが大好きな僕なのですが、なのであまり体験したこと無いのに、なんとなく見聞きした外部情報で「これはつまんらない」とか「これはくだらない」とか先入観で判断して、決めつけた“物言い”をされるのがどうしても苦手です。「ある国はおかしい」とか「ある民族だから、嫌いだ」とか「テレビはくだらないから見ない」とかそういうたぐいの“物言い”です。だって観たり聴いたり体験する前から、なんで“おかしい”とか“嫌い”とか“くだらない”とか分かるんでしょう?そうやって先に判断しちゃうと、それって知的好奇心がもたらしてくれるドキドキがないじゃないですか!百歩譲って、観たり聴いたり体験したりしてから“くだらない”って言ってくれよ!とか思ってしまうわけです。
ていうか、むしろ観たり聴いたり体験すると、“くだらない”とか“嫌い”とか思ってたものも、逆に意外におもしろいかも・・・ってところを見つけられる気がするんです。だってその見つけるって行為が一番ワクワクしますし、それが生きてることの一番のおもしろさだと思うからなのです。

[水道橋博士のメルマ旬報 vol.47 2014年10月10日発行「オトナの!キャスティング日誌」より一部改定]

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