大城立裕「カクテルパーティー」

どちらかというと、沖縄が好きではない
私は、生まれ育った地であるこの「沖縄」に興味がありません。さらに言うと、沖縄が好きではありません。私は幼い頃からテレビっ子でしたが、印象に残るニュースといえば、沖縄戦、基地問題とそのデモ、毎年恒例の学力テストが最下位だというものばかりです。そのころ私は幼く、政治や歴史のことは詳しく分かりませんでしたが、沖縄が困っているのだということ、弱い立場にあるのだというイメージを持つにはそれだけで十分でした。私はこの地に生まれ、この地に失望していたと思います。誰だって生まれてすぐは、何の疑問もなく生まれた場所を受け入れて愛することが自然だと思います。だからこその失望でした。そこには自分自身を否定されたという憤りも確かにありました。

わたしのなかに流れる沖縄
この小説には、生まれた場所とその政治的背景によるコンプレックスが国際関係と共に緻密に描かれていました。そこで、私のコンプレックスが自身の内側から出てきたものではなく、政治的背景による沖縄のコンプレックスが、地続きで私のものとなっていることに気づきました。生まれて過ごした場所という事実以外で初めて、私のなかに沖縄が流れているのを感じたのです。

カクテルパーティー前章
前章のパーティーの様子は、身分の高そうな人たちが知的な会話を交わしており優雅に思えますが、私には知識をひけらかしたいだけの中身のない会話のように思えて退屈でした。誰も彼もが核心をつく発言を避け、互いの地雷をうまく避けながら、皮肉めいたユーモアを言ってやろうという雰囲気が気持ち悪かったからです。本当はそこには支配と被支配の関係があって、上下関係があって、対立関係がある。にも関わらず多くの第三者を招き入れ問題をうやむやにし、負の歴史と感情を奥底に眠らせて、その場限りの楽しい時間を過ごそうとしている様子が滑稽に見えました。

カクテルパーティー後章
後章では、視点が「私」から語り手へと変わり、「お前」という二人称からは、虎の威を借って気持ち良くなっていた狐ともいえる「私」を、語り手が責めるような、試すような印象を受けました。またこの章は、複雑なあまり善悪や正義が分からなくなるような混沌に溢れていました。沖縄人であり、娘の父親である「私」は、どちらのプライドを持ってロバート・ハリスを告訴したのでしょうか。父親として娘を思うのであれば、彼女を少しでも早くこの事件から解放してあげるべきだったかもしれない。でもそうすれば、娘は沖縄人の自分を弱い存在だと貶め、この先も不条理なことを当たり前の現実として受け入れて生きてしまうかもしれない。どちらにしろ「私」のエゴかもしれない。正解がわからないことが苦しかったです。


親善は過去の過ちを赦すことなのか

また、一番大きな課題は、国同士の「親善」だと思いました。親善とは、過去の過ちを赦し合うことなのでしょうか。赦すとは、何もなかったかのように綺麗さっぱり忘れることなのでしょうか。ミラーたちは、臭いものに蓋をしたいだけの偽善者だったのでしょうか。冒頭にあるように、私は沖縄に興味がありません。でも、そんな私だからこそ、この作品に出会えて良かったと思っています。私はまだ幼く無知で、生まれ育った地である沖縄のことを知りません。だから、これから知っていこうと思いました。沖縄という特異な地、日本という国。沖縄人であり日本人である私だからこそ、考えられることがあるような気がしています。

#沖縄 #小説#大城立裕#カクテルパーティー

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