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何を食べ、読み、観て聴く?摂取したものでできていく

これまでに読んで心に残った本や漫画、観た映画やドラマ。私には、時折そのタイトルを書き出しては連ね、振り返る癖がある。自分の心が動いたものを、足跡として残しておきたい気持ちが昔から強かった。

そういう、自分が取り込んだものに自覚的でいようとする意識のうえに、最近は食事も読書も鑑賞も、自分が摂取したもので自分ができている、形づくられているという感覚が強くなってきた。

野菜、肉、塩、砂糖、しょうゆ、みりん…。自炊をするようになってから、1つの料理もいろんな要素がかけ合わさってできていることを実感するようになったからだろうか。自炊をすることで、自分の体の中に取り込むものをある程度コントロールすることができる。でも、出来合いのものや外食は違う。アレルギーさえなければ、成分表がなければ、自分が口にするものでも何がどのくらい含まれているかを詳細に知ることは難しい。

生きているうち、人間は、空気を吸うように自然に、自覚なく、空気以外にもたくさんの情報や物質を取り込みながら生きている。

創作物が誰かの料理だとしても、料理人が必ずしも食材から作らないように、どこかから拾ってきたものを自分なりの味付けや、調理法や盛り付けで新しいものにしている。それがいつしかレシピになって、またアレンジされて、さらなる作品を生み出していく。その繰り返し。

そのなかで、私はどんな料理を体に取り込むか。その料理の材料1つ1つが体に影響を及ぼすのなら、取り込んだものが私を形づくるなら、それを選ぶことはどんな私になるかの選択といっても過言ではないのかもしれない。

どれを食べるか、読むか、観て聴くか。何を摂取してどんな私になってどう明日を過ごすか。そのうちの「how」の部分が自炊。私が料理する部分、創作する部分。それが生きることだから、このまま自分が食べるもの、読むもの、観るもの聴くものに、腰の重いままでもきっといい。

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